ピンカー 対 トマセロ (1) 言語的本能はあるか?

namdoog2006-10-11

 前回に続いて、ふたたび生成文法をめぐるトマセロ(M. Tomasello)の言説を見ることにしよう。
 ピンカー (Steven Pinker) のThe Language Instinct: How the Mind Creates Language (1994) は、ふつうならそう多くの部数を重ねることがない言語理論の本としては、例外的に大成功をおさめた。チョムスキーの言語理論を一般読者向けに平易な語り口で記述し、豊富なエピソードをまじえて解説したのが功を奏したのかもしれない。原著は我が国では『言語を生みだす本能』(上下二冊、椋田直子訳、日本放送出版協会、1995)というタイトルで刊行され、かなりの評判をとったようである。
 この本にトマセロはかなり長文のレヴューを寄せている(M. Tomasello,‘Language is Not an Instinct,’ Cognitive Development, 10, 131-156 (1995) )が、そこには多くの貴重な論点が散りばめられているので、<言語>ひいては人間の<表現>に本格的に関心をおぼえている読者にとって啓発するところが多い。
 (ここでは、問題の書評で展開されたトマセロの議論を正面から検討するというより、そこにいわば散種された各種の論点をもっぱら筆者の基準で適宜とりあげる予定でいる。現時点でこの文章がどのように展開するか、最後までの見通しはまだない。あるいは、話がしばしば脱線することもあるかもしれないが、その点、あらかじめお許しを乞う。この文章の主たる目的は、トマセロ理論の考察・検討にあるわけではないからである。)
 トマセロが言うには、心理学者がはじめチョムスキー生成文法に注意を惹かれたのは、その考え方が、<言語獲得ならびに言語使用>という問題への行動主義的アプローチを辛辣に批判したからである。ところが、文法理論としての生成文法が普及するにつれ、いわばその虎の威をかりて、文法理論にとっては周辺の問題であるはずの生得説(nativism)が大手を振ってまかり通ることになった。
 ところが奇妙なのは、生成文法の生得説を展開するために、チョムスキーがとった戦略である。人間の行動や認知を科学的に調べるのに、ふつうは行動や認知にかかわる事実の観察を優先させるはずである。ところがチョムスキーは、そのかわりに、もっぱら論理的議論に依存する。つまり、抽象的文法は、言語使用の特殊な事例を観察することによっては習得できない、というのである。
 チョムスキー学派の研究者たちは、その後、生得説を支持するとされるさまざまな言語事実を集めることになる。例えば、自前の言語を創出するデフの子供たちの事例やクレオール〔注:異なる言語集団の接触からできた共通語としてのピジンが、次世代において母語となったもの〕の事例など。
 こうした趨勢を背景にして、ピンカーのあの本が世の中にでることになった。著者は、最近のチョムスキー理論を要約し闡明することに努めている。彼の野心は、生成文法の生得説を裏付けるとされる種々の言語現象を、生成文法に対して専門知識をもたない一般の読者にもわかりやすく、生成文法に結び付けようとしたことに窺われる。トマセロは、ここにこの本の長所を認めている。
 しかし同時に、トマセロは、ピンカーの本が犯した最大の過ちを容赦なく指摘している。すなわち、この著作は、生成文法とそれに付随する生得説が、あたかも確立された科学的事実であるかのように語っているのだ。しかし事実はどうかというと、この本で取り上げられた多くの問題がいまだに熾烈な係争の的になっているのである。トマセロはこう明言している。「多くの言語学者――実際に、大多数の言語学者が、チョムスキー流の普遍文法UGなどはないと考えているということ――こうした事実は、430ページにもなるこの本〔『言語を生みだす本能』〕のどこを捜しても述べられていない」と。
 ピンカーの主張の眼目は、次のようにまとめることができる。――言語とは、人間の大脳に生物学的に組み込まれたその明確な部分である。これはすでに言語の科学が明らかにしたことだ。言語の能力は、情報を処理し知的に振舞うといういっそう一般的な能力と区別された、特殊な技能なのである。この技能を、ピンカーは「言語のための本能」(an instinct for language)と呼ぶ。彼によると、人間が言語を使用できるのは、蜘蛛が巣を紡ぎだすことができるのと同じだという。簡単にいうと、「言語(language)は本能(an instinct)なのである。」
 これに切り返して、マセロはきっぱりと言っている、「言語は本能ではない」と。彼の言い分を知るには、<本能>という概念をはっきりさせておかなくてはならない。<本能>とは、行動を遂行する能力であるが、ふつうそれは1)行動の表現形において比較的紋切り型(ステレオタイプ)であり、2)特定の生物個体にとって標準的な経験環境から切り離された場合でさえ、その個体の発生(ontogeny)上に現れるもの、と理解されている。
 しかしながら、言語はこの二つの特徴にはあてはまらない。1)言語ほどそれを担う言語集団によってまちまちなものはない。すなわち、ヒトという動物種にとって、言語=行動の表現形はじつに多様なのであるし、2)ある個人(例えば、日本で生まれた人)が本来の言語環境(もちろん、日本語の環境)から切り離されて育てば(例えば、幼少時に英国で過ごせば)、日本語ではなく英語を習得する。
 ではなぜピンカーは、本来言語には不適切な<本能>という観念を適用したのか。この疑問にトマセロはもっともな答を見つけだしている。つまり、ピンカーはじめチョムスキー派は、<言語>という観念を通常とは異なる意味で使用しているのだという。ふつう、<言語>の意味するのは、英語、日本語などの特定の言語を話す人々がもつコミュニケーションの慣習のことである。ところが、ピンカーたちは、<普遍文法>と称するものを<言語>と同一視している。彼らの考えでは、普遍文法は、ヒトという動物種に普遍的にそなわる計算構造(computational structure)である。それゆえに、<言語は学習するわけにはゆかない>ものなのである!
 こうした見通しを立てたうえで、トマセロは、この書評論文で三つの問題を論じるつもりだという。第一に、従来、多くの研究者が<生得的な言語モジュール>に言及してきた。ところで、それらのうちで、理論的整合性を保っている考え方は、ただ一つ<生成文法>のそれである、ということ。(これは、ピンカーのいう<言語本能>と同じである。)
 第二に、こうした言語観は誤りであること。ピンカーがこの本でUGの証拠として例示している多くの経験的な言語現象は、言語に対して生物学的基礎があるということだけを許容するルーズな「生得説」とも両立するのであって、特に生成文法に有利なものではない。
 最後に、チョムスキー派とは異なる<もう一つの>言語理論(しかも複数の)があること。認知の発達という視点から言語を考究する者にとっては、この見地には魅力がある。なぜなら、これらの理論は、認知の〔言語とは異なる〕他の領域における発達について知られた事実とよりよく両立するからである。
 以上が、トマセロの議論のいわば序文に相当する。本論に相当する部分に目を転じて、興味ある論点を拾い上げてゆきたい。(つづく)