ピンカー 対 トマセロ (6) ”言語獲得”の「問題」

namdoog2006-11-10

大脳への局在
 言語的サヴァンの能力や言語的障害者の無能力が大脳のどの部分に起因しているかについて多くのことは分かっていない。もっとも、さまざまなタイプの失語症の研究、さらに大脳の働きを画像解析するあらたな技術が進んだおかげで、大脳と言語との関係についてはかなりの知識の集積がある。とはいえ大脳について知識が増せば増すほど、逆に、言語機能が大脳のどこに局在するかを正確には言えなくなっている。
 ピンカーも文献を示しているが、大脳への言語機能の局在については、ヒトの集団〔大雑把に言えば<人種>〕によって著しい変異が認められるし、脳に損傷をこうむった子供は、大脳の普通とは異なる場所で言語機能を営むようになる。
 しかしトマセロは、大脳への局在の議論が生成文法の生得説を強化するわけではないという。局在化を説明できるほかの仮設がたくさんあるからだ。
 例えばBeverは、言語処理のある側面が、大脳機能の一定レベルの複雑性(例えば、関係概念の扱いができること)を要請し、複雑性(そのなかみが何かを問わず)を扱うには、脳の特定の部分が適している、その結果として、その部分が言語機能を担うことになった、という仮設を提出している。たとえその特定部分が(一般的な意味での複雑性に向いているのではなく)言語に特有な複雑性に向いていたとしても、その部分は言語の学習(learning)に使用されるのかもしれない。〔それゆえ、生得説とは無関係だということ。〕議論のポイントは、大脳への局在化はある認知機能の起源について何も教示してくれない、という点にある。
要約
 大脳を引き合いに出す議論は心理学者のあいだである種の威信を保っている。というのも、それが「ハードサイエンス」に訴えているからである。しかしながら、局在化、選択的障害などの議論は、基本的に、生得的な統語論的モジュールがあるかどうか、という問題とは関係ない。
 この点は最近、GreenfieldとKamiloff-Smithの二人が独立に理論的な論証を行った。なるほど、大人において、特定の認知機能のモジュール性が認められることがあるかもしれない。しかしこれは、個体発生の過程において、認知的資源が特定の機能領域に集中したことに由来するのかもしれないのである。モジュール性は、しばしば発達過程の帰結であって、その原因ではない。
〔この見地もきわめて重要である。従来の科学的認識は<発生>の問いを持たなかった。われわれのリアリティあるいはあるがままの人間性が、可能的な諸条件の単なる現実化であるという形而上学が<発生>の問いを封じていたからである。しかしながら、このリアリティは別の有り様をとったかもしれない。他の諸可能性をさしおいて、この現実が構成されたことには理由があるのではないだろうか。潜在性は別様にも実現したかもしれぬことを形而上学の原理としなくてはならない。無時間的過去に可能性を設定してそこから直線的に現実を導く認識方法は、単なる現実の追認に過ぎないではないか。〕
 この見地からすると、言語は、生得的でカプセルに包まれたモジュール(an innate encapsulated module)(そこにすでに大人の言語の構造が含まれている)ではなくて、「ふるい部分から制作された新しい機械」であって、個体発生の過程で大脳に局在化しモジュール化する、というわけだ。
〔筆者はこの見地に、記号系の機能原理であり構造を創出する構成原理でもある、<再帰的動き>(recursive move)を再び発見する。このポイントは私見によれば、大きな意義を有する。しかし最後的な判断は、トマセロ自身の言語理論を詳細に吟味しなくては行うことができない。〕

言語獲得
 ピンカーは、<言語獲得>という問題を、生成文法の生得説の証拠として二重の意味で活用している。言語の獲得を生得性という概念を抜きに説明するのは、無理であるというのだ。つまり、獲得のためには言語刺激が貧弱だし、一般的な学習の手続きでは不十分であるという。

刺激の貧しさ
 ピンカーは、言語の慣習性〔規約性、つまりルールに適合しているという性状〕に適用するつもりで刺激が貧弱であるという論点をもちだすわけではない。(例えば、彼は、特定の語の獲得、あるいは特定の統語論的慣習(ないし規約)の獲得にとって、刺激が貧弱だと論じてはいない。)子供が「単純な帰納」に基いて「論理的に」ふるまうなら当然のこととして犯すだろうと予想される文法的な誤りがある。ところが、子供はこの種の過ちを犯さない。子供は、これらの誤りが実際に誤りであると教えられる経験をしていない。したがって、子供は、言語構造の生得的知識に基づいてこの種の誤りを回避していることになる。
 ひとつ例をあげてみたい。疑問文を作るためには、<平叙文のなかの最初の動詞を文頭に移動せよ>という規則が役立つ例がある。例えば、Is the man bald? ← The man is bald. 子供がこの規則を習得しているとする。次に、The man who is running is bald. という文を疑問形にせよ、という課題を子供に与えたとする。しかしこの子は、Is the man who running is bald? という誤った文を作ることはない。
 しかし、子供がこうした誤りを犯さない理由を生得説以外に求めることができる。例えば、Slobinは、<意味論的・語用論的戦略>という考え方の導入で説明が可能だと論じている。また、子供はいままで、-ing動詞を含むwhoの節を聞いたことがなかったのかもしれない。〔この場合、who is runningはいわば分節のない一語にひとしい。だから、単純なルールで正しい疑問文が作れることになるだろう。〕
 ピンカーは次の点に重要性を見出す。すなわち、子供は、たとえ自分が作る発話の文法性について「否定的証拠」を受け取ることがなくても、多くの文法的「誤り」を犯さない、という事実である。つまり、親は幼児が文法的に言い間違えたとき、いつでも口やかましくその誤りを正そうとはふつうしないものだ。それなのに、子供はやがて正しく文法に適った言い方ができるようになる。(もちろん、たまには間違えるにしても、である。)
 このピンカーの観察はある特殊の意味において真である。しかしもっと現実をよく見よう、というのがトマセロの提案である。両親が子供の慣習的〔規約に適った〕ないし非慣習的発話にさまざまに反応するやり方は変幻自在だといっていい。例えば、子供に文法に適った言い方を反復させるよりも、文法に反した発語を慣習的な大人の言い方(conventional adult form)〔これは正規の文法に適った文とは異なる点に注意〕に作り直させることをする。
 一般的に言って、子供が言葉を遣うときにはつねに、彼らの言語的生産物のコミュニケーション上の有効性にかんするあらゆる種類のフォードバックを、彼らはもらっている。このコミュニケーション上の有効性は、言語的生産物の文法的慣習性(規約性)と少なくとも一定の関係がある。この論点がいっそう生きるのは、「文法」を生成文法とは異なる意味で解する場合であろう。
伝統的な学習の手順の不十分さ
 以上の諸問題の根底には、子供が言語獲得を遂行するときに用いる学習の手順(learning processes)の問題が横たわっている。
 チョムスキーを援用しながらピンカーが述べるところでは、一般的な学習の手順では、言語獲得には不十分である。しかし、彼らが「学習の手順」というのは、行動主義の学習理論、単純な連合、盲目的な帰納などがミックスされた陳腐な内容のものにすぎない。現時点における認知科学の学習理論にはピンカーの知らない可能性がある。
要約
 これまで見てきたどの議論――言語の個体発生における生得的な統語論的モジュールの必然性のための議論――も力が弱い。子供がある種の文法的な誤りを犯し他の種類の誤りは犯さないことには、一通りではない理由がある。規則的な文法的形態論と不規則な形態論が、発達上で学習と使用の異なるパターンを示すことの理由も一つではない。
 理論家のなかには、「論理的」と見なす誤りを子供が避けている事実に驚く者がいるが、子供の観点からは、「論理的」ではないかもしれない。単純な連合のプロセスや帰納では言語獲得を説明できないということは、認知の機能に関していっそう洗練された認知発達の理論でもそれが説明できないということを意味しないのだ。
 こうして、トマセロは、ピンカーの見地が、認知科学以前の50年代の学習理論の域を脱していないことを痛烈に批判するのである。しかしまだピンカーが生得説を補強するために持ち出した論点は残っていた。ピジンクレオール、手話などの問題である。(つづく)