ピンカー 対 トマセロ (9) 結論: 発生の問い

namdoog2006-12-01

結論
 以上の議論を通じて、トマセロはこう結論する、「認知にはさまざまな領域があるが、言語はそのうちで、生得的モジュール(本能)の資格を称することが非常に困難な認知領域である」と。基本的に言語は文化による制作物(artifact)であって、言語共同体の欲求が時間的に変容するのに応じてガラリとその姿を変える。そのうえ、言語獲得を可能にする能力の多くは認知の他の領域と重なり合っている。言葉の運用能力は記号形成とカテゴリー化(カテゴリー把握)の一般的プロセスに依存するのである。
 トマセロに言わせるなら、研究者が提唱しているほかの多くの認知モジュール(例:素朴物理学、素朴心理学など)のほうが、言語よりよほど<モジュール>あるいは<本能>の資格にふさわしい。なぜなら、それらの表現形には、文化を横断する一様なおもむきが多分にあるからである。この種の認知モジュールは、文化の成員達の間の相互行為に負うところがはるかに少ないし他の認知領域と重なり合うこともない。
 認知言語学/機能言語学による言語へのアプローチ(それには、個体発生と系統発生に関する見地が含まれる)を生成文法の言語観の替わりに採用したほうがいい。もちろんこの代案の細部については研究が継続中であり、未解決な側面も残されている。それにもかかわらず、生成文法の生得説に比べて、代案のほうがはるかに納得がゆくものなのである。
 Braineは、生成文法と認知/機能言語学のふたつのパラダイムが、根本的に異なる目標をもつと指摘している。チョムスキー派の生得説は、論理学を遣って、人間の独自で生得的な性質(人間本性)を明らかにしようとする哲学的企てである。しかし、認知/機能言語学は、人間がどのようにして自然言語を習得し使用するかを解明する科学的企てなのである。
〔ここでトマセロは、Braineの哲学 対 科学という、安直で古めかしい(論理実証主義的な)二分法に依拠しているが、筆者としてはこの点は肯けない。言いたいことは分かるのだが、「科学的」なるラベルがイデオロギー的に用いられるのはまことに悪い習慣である。〕
 ピンカーの本が大成功をおさめたおかげで、言語の理論化のためにチョムスキー派の生得説にかわるアプローチがダメであるかのような印象が世間を風靡している。トマセロは言う、私がこの批評を書いたのは、この誤った印象を糾すためである、と。言語の探究のために、単なる形式的考察に終始するのは間違いである。言語以外の人間の行動や認知にかかわる科学的探究を言語の探究のために参照しなければならない。特に発達心理学者が言語の探究に寄与する部面は大きいと、トマセロは自負している。最近になってようやく<言語の心理学>を意義ある仕方で研究する可能性が拓かれたからである。
問題としての<言語の発生>
 以上の議論に終わりまで目を通した読者は、トマセロの議論にどこまで説得されただろうか。議論が生成文法の生得説の批判にもっぱらの重点があるかぎり、問題の本質に関しては、事柄の半面しか語られていないという印象が残るのは否めない。言語の生成――ここでは、言語のある種の経験的規定性(主として、言語獲得、言語の発達が問題である)を制約する、世界への言語そのものの出現という形而上学的出来事をこの用語でいいたいとおもう――が、生成文法の哲学では了解できないのは、トマセロの言うとおりかもしれない。しかし、言語が不可能ではなく、積極的に可能なのはどうしてなのか。とりわけ、認知言語学/機能言語学の哲学は、この問いに応じうるのか。これにはまだ答えられてはいない。これはもちろん、われわれが今後引き受けなくてはならない課題である。
 この問いを今引き受ける代わりに、ここではトマセロの議論がややもすれば曖昧に放置している問題に一定の整理を施しておきたい。それは人間行動=認知の発生を考察する際に、個体発生と系統発生のふたつを正確に分けなくてはならない、という点である。しかもこの二つの様態の「発生」が決して無関係ではありえないと、筆者はおもう。 
 (ちなみに、筆者が使用する術語<生成>は横文字ならgenerationとなる。ややこしいのは、言語の個体発生(ontogeny; ontogenesis)や系統発生(phylogeny; phylogenesis)という表現にも、やはり語源に遡れば同じ<生成>が含まれていることだ。例えば、「個体発生」(ontogeny)は、onto-(生き物、存在するもの)プラスgeny(発生)から成り立つ語にほかならない。これは言葉だけの問題ではないだろう。生命哲学とよぶべき思索にどこかで結びつく小さな言語現象ではないだろうか。いまこのことには立ち入れない。)
 チョムスキー派が唱える言語の生得説(nativism)では、要するに、生成文法が言語モジュールとして人間の中枢神経系にビルトインされているという主張である。このモジュールが有効に機能するかどうかは、生後の環境と身体の条件による。人間の言語活動は、この意味ではピンカーの言うとおり<本能>だということになる。
 ところで、<本能>なる用語は、多くの生物学者によって集中砲火をあびたいわくつきの言葉である。ピンカーがこの用語をあえて自著『言語を生みだす本能』(Linguistic Instinct)に採用したのは、たぶん故意にセンセーションを狙ったのではないだろうか。
 <生得性>も同様の用語である。藤田統によれば、生得説とそれへの反論(例えば、学習理論)の論争は、<生得性>(innateness)という言葉が内包している二つの意味が混同された結果、起こったものにすぎない(「生得的行動」、『現代基礎心理学』第9巻、東京大学出版会、1983、第一章)。二つの意味とは、(1)個体の行動が種に特有の遺伝に基づいていること(系統発生的意味)、(2)個体の行動が環境の影響から独立に発生すること(個体発生的意味)の二つである。
 この区別をあいまいにしたまま、従来、議論がおこなわれてきた。心理学者は(1)を無視して(2)だけを念頭にすることが多かった。心理学者トマセロにも――事態はそう単純ではないが――この傾向が認められないわけではない。エソロジストのTinbergemは、生後ずっと他の個体から隔離されたトゲウオが、初めて見た赤い腹の模型に対して攻撃行動を示すことを報告している。従って、この種の行動は生得的であるほかないのではないか。
 ところがこれには反論が可能だ。そのトゲウオは確かに他の個体を見ないで育っただろうが、自分の姿がガラスや水面に映ったのを見たに違いない。それにトゲウオは、種に特異的な行動の個体発生に必要な、すべての<経験>を剥奪されたことを証明できるだろうか(Lehrmanの反論)。
 この論争は<生得的>の意味を(2)の意味で解しているために起こったものである。もし(1)の意味に密着するなら、トゲウオという種に特異的な行動が生得的である、という主張には正しい論点が含まれていることになる。
 そのトゲウオが育った環境にある多くの要因は、トゲウオの攻撃行動に含まれた遊泳行動や視覚機能などの発達にとって重要な役割をする。しかしそれらの要因から直接的にトゲウオの「本能行動」を説明することはできない。説明には、系統発生的な<種としての特異性>という要因つまり<生得性>が必要なのである。
 しかしトマセロが言語獲得について指摘しているように、この意味での<生得的要因>はなるほど問題の行動が文字通り生得的であるために必要かもしれないが、しかし十分ではない。トゲウオの攻撃行動に伴う遊泳行動・視覚機能・運動協応などが、逆に、攻撃行動の形成に寄与した面があるに違いない。(例えば、視覚障害のトゲウオに赤い腹の模型に対する攻撃行動が発現しないのは自明であろう。)
 トマセロのピンカー批判をずっと追跡してきたが、彼の議論は<生得性>をどういう意味で理解していたのだろうか。これまでの文章を点検していただきたいのだが、じつは彼は、(1)と(2)の区別をまさにあいまいにしたまま<生得性>を論じている。そのかぎりでは、ピンカー批判としてはトマセロの議論は的外れだと言わなくてはならない。なぜなら、ピンカーがいう<生得性>は(1)に限定されていて、言語の個体発生に理論的関心が向けられてはいないからである。言語普遍性の批判についても、両者の見方はすれ違いの印象が否定できない。
 それではトマセロは<生得性>を誤解していると断じていいのだろうか。従って内容のない批判を繰り広げていると言うべきか。決してそうではない。
 じつは<生得性>の二義性を明確に区別し混同すべきでないという藤村の見解には致命的な限界がある。二義性が間違っているというわけではない。しかし、個体発生が系統発生を反復するという観察(これ自体いわば100パーセント正しい命題ではないが)が暗示しているように、個体発生と系統発生は絶対的に分離しうる観念ではない。二つの観念は論理的に独立ではないからだ。
 個体発生とは、大雑把にいうと、種としての遺伝情報の個体における発現である。系統発生とは、個体を成員とする種が過去から今にいたる進化の過程である。このように、<個体>と<種>とはワンセットの概念にほかならない。
 例えば、個体の同一性(一匹のトゲウオ)は種(トゲウオ)の遺伝子構造が規定するだろう。確かにチョムスキー派の<生得説>は、筋が通っている(整合的である)かぎり文句の付けようがない。しかし、個体発生を反復し積み上げることを通じてしか<進化>は実現しない点を直視しよう。換言すれば、個体発生と系統発生は概念の内容として交叉しているのだ。
 筆者の考え方をこのブログの記事を読んで多少とも心得ている読者には、ここに露呈された論点が、従来、筆者がソシュール記号学形式主義的な思考様式、さらに構造主義への原理的批判の論点と構造的に同型であることに気づいてもらえるのではないだろうか。
 そうだとすれば、個体発生に理論的意義を見ないチョムスキー派の言語理論は、生きて働いている言語の理論にはなりえていない。それはいわば絵に描いた餅にすぎないだろう。言い方を変えてみよう。生成文法は、実に手がこんではいるが、言語のまがい物の描写でしかない。言語の実像をチョムスキー派から奪回しようではないか。 (了)