〈遊び〉についての断章 (5) 

namdoog2012-03-16

〈遊び〉を再考する――規則の梯子 3


方法としての遊び 
 俗なる現実とわたりあい、そこに遊びの時間と空間をしつらえるためには、素手ではどうすることもできない。この事態を私たちは、遊びには〈方法〉がいる、いや遊びとは方法そのものだという命題に要約したいと思う。
 精神医学者グレゴリー・ベイトソン(Gregory Bateson, 1904〜1980)は〈遊び〉の構造にメタコミュニケーション的機能を見出した。たとえば、二匹のオオカミの仔がじゃれて噛みあっているのは、もちろん遊びである。これが遊びなのは、身体技法としての〈噛み〉のやり方が――たとえば獲物を噛むときのように――字義的な噛みの行動でないことに表現されている。ペットの犬や猫が御主人の指をじゃれて噛むのも同じことで、この噛みの方法は〈あま噛み〉と呼ばれている。[注:〈あま噛み〉が遊びの標識であるのは事実だが、ペットのあま噛みはペットと飼い主(=人間)との間の相互行為である点に注意が必要。問題は、同種の動物のあいだの遊びと異種動物間の遊びとの区別にある。この点についてはペイトソンの観察を越えたいっそう入念な考察が肝要となる。]
 ベイトソンによれば、一般に遊びの行動には、まさにこの行動が遊びであることを表示する信号がそなわっている。換言すれば、〈遊びの行動〉はある内容を表現しながら(たとえば、この行動は〈噛み〉(biting)である)、同時に、これが擬態であることを示すのである。遊びであるひとつの行動は字義的でまじめな行動から画然と分離されているとは限らない。ときには遊びが本気の行動になりかわり、逆に本気の行動が行動の擬態に堕してしまうことがある。ある行動をまじめな様態のまま保ち続けるためには、身体動作に一連の規則の適用がなされなくてはならない。これとまさに裏腹に、この行動からまじめさをはぎ取り、行動を全体として遊びへと変換するためには、それらの構成的規則と拮抗する一連の規則を身体動作にあてはめる必要がある。
 このようにして、遊びとは、一方の端を現実に、他方の端を「楽園」にかけ渡した梯子をよじのぼるいとなみにほかならない。遊びの方法とは、現実のただなかに据えられた梯子なのである。誰にせよ、新しい遊び(たとえばゴルフあるいはチェス)を習うときには、この梯子に足をふまえこれを登ることを試みる。この種の反復された試行のことを〈遊びの練習〉と呼ぶことができる。
 遊びにとって〈練習〉の意味がどんなに重いかについてはすでに述べたので繰り返さない。ここでの問題は、第一に、遊びにたいする〈規則〉の意義である。そして第二に、この種の規則のありよう――規則の存在構造――について明らかにすることである。
 規則はいわば遊びの魂である。規則という概念をたえず参照することによって、遊びの偽りの像を摑ませられるような失敗はまず回避できるだろう。規則の概念は遊びにとってそれほど本質的なのである。
 とはいえ、人間的実践の形態としての遊び、あるいは現象学者のくちぶりを借りていえば、人間がこの世界に住む独自な様式(実存の様式)としての遊びの規則がどのようなものであるか、行動の規則一般のなかで遊びの規則がどのような特徴をもっているのか、たとえば人間的実践の別の形態である宗教の規則とどこがどう違うのか…。これらの問いの解明を通じて遊びの規則のなかみを具体的に明らかにするまでは、遊びの認識は不十分なものにとどまるだろう。
 その検討は別の機会にゆだねるほかはないが、当面はここに示された観察に対して提出されるに違いない疑問に答えておきたい。それは次のような疑問である。遊びの規則の強調は、本来自由で余裕に充ちたものである遊びを、ひどく窮屈でゆとりも面白味もないものにしてしまわないか。たとえ規則が遊びに必要だとしても、規則づくめでは、遊びは窒息するのではないか。(この疑問は実際、卒論の書き手が抱いたものであった。)
 こうした疑問には、それは誤解だ、と端的に答えるほかはない。第一に、遊びが自由でありうるのは、むしろそれが規則に従う造形だからである。もちろん規則が古びたり病んだりするにつれ、遊びも朽ちる危険がつねにある。生物の種にその誕生と進化と絶滅(それに化石化)があるように、遊びにも成長と衰退があるのはやむえないことだ。
 第二に、右のような疑問がきざすのは、規則に関する偏見のせいではないのか。これまでの遊びの理論に認められるのも、規則の哲学の貧困である。遊びの規則は演算の規則や自然法則などとは類を異にしている。遊びを律するのは、表現型の規則、合理性と意味を新たに作りだしてゆく規則である。それには規則に背くための規則すら含まれている(遊びがテクストであるかぎりで、記号の規則、とりわけ言語の規則との比喩がここでも役立つだろう)。(この論点がまじめな行動あるいは字義的な行動にもそのまま当てはまるのは言うまでもない。)次回に私たちは、規則の哲学について述べることになるだろう。
 ともあれ、遊ぶために規則の囚人になるには及ばない。私にできることから始めて楽々と遊ぶ練習、これこそが遊びというものだろう。 (未完)

精神の生態学

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