記号論の再構築のために(2)

namdoog2012-03-31

3 古典的記号論から現代的記号論への展開――ソシュール記号学の構想

 
 20世紀から現時点までの記号思想の展開を通観するとき、この間になされた探究の跡を大きく整理して、これを「古典的記号論から現代的記号論への展開」と捉えることができる。いまでは常識となっているように、20世紀において記号論を構築するのに力を尽くしたのは、ソシュール(F. de Saussure)とパース(C. S. Peirce)の二人であった。彼らの業績はまことに偉大でありその意義はいまだに汲みつくされてはいない。いま私たちが目にしている記号論はほぼ彼らの衣鉢を継いだ仕事だといっても過言ではないだろう。彼らの業績が「古典的記号論」に礎石を据えたのである。
 一般に、歴史的系譜に正統と異端があるように、記号論についても、異端の系譜がないわけではない。とはいえ、闇の暗さが光のかがやきによっていっそう暗くなるように、異端者がマジョリティをなす正統な者たちなしには生息しえないのは自明である。後に触れるはずのグッドマン記号論は、分析哲学の潮流に掉さすという意味ではパースの系譜に属しているが、分析哲学者の大半がきわめてテクニカルな概念操作にあけくれしている(いわゆる重箱の隅をつついている)のとは打って変わって、全体知を志向したその思索の構えにおいて異端者の面影がいろこい。
 だがグッドマンの哲学的営みを、パース哲学における本来の企図を復興するものと受け取るなら、彼こそがある意味で正統派の人物だと評することもできる。実際、古典時代の記号論を現代へと推し出しその現代化に大きく貢献した者の一人がグッドマンである点に疑いはない。
 記号論を現代に押し出した多くの異端者――そのかぎりで、逆説的だが、記号論の本来的正統派――のうち、認知言語学者たちの名も逸することができない。彼らの仕事には後ほど触れることになるだろう。しかも彼らは分析哲学の枠組みを踏み越えた大陸の哲学的伝統から意識的に学んでいる。具体的には、とりわけメルロ=ポンティの身体性の現象学が彼らの発想のひとつの源泉となっている。 これに加えて、彼らが明言しているように、身体性の現象学を彼らが受容した根本の動機に「伝統的な西洋哲学思想」の乗り越えがあったことを看過できない。――認知言語学者は自らが「異端者」だと自覚しているのである。
 以下において記号論の現代化を具体的に調べるその前に、私たちはまずソシュールの業績を考察しなくてはならない。なぜなら、ソシュールこそ、二つの伝統的記号観という問題を一身に引きうけ、そのうえで、言説の形態としての記号論記号論でありうる機軸――記号における二元性の構造――を明確に打ち出すという、独自な業績をあげたからである。
 ソシュール記号学探究における最大の功績は、実在論的記号観から内部存在論的記号観への転換を、周到な議論の裏打ちによって成し遂げたことだろう。ソシュール記号学の基本的概念をここで説明するのは時間の浪費と言われるかもしれない。記号論といえばつねにソシュールが引き合いにだされるのであってみれば、この疑念にはもっともなところがある。
 とはいえ、ソシュールの記号概念を明確に把握したうえでないと、「記号論」なるものを理論的言語の空間から除去できないゆえんは明らかにならない。記号論の「現代性」のひとつの意味は、それが現代においても「除去し得ない」(ineliminable)記号論だ、という点にある。それゆえ「古典的記号論から現代的記号論への展開」の真意を理解するためにも、ソシュールにおける記号観をしっかりと摑む必要がある[Saussure 71]。
 ソシュール記号学はホモ・ロクエンス(homo loquens 言葉を語る人間)の人間観を背景に誕生した。これは、人間は言葉を用いることにおいて、ほかの生物とは断然異なる独自な生き物だ、とする人間観にほかならない。この人間観は、〈理性〉に人間の証を認めるホモ・サピエンス(homo sapiens)の人間観の具体的形象だと評すこともできる。なぜなら、言葉を語る人は、必ずや「理性」の持ち主だからである。〈理性〉そのものは見えないが、その働きは、耳朶にふれ目に見える言語として実現されるのである。
 ギリシャ語のロゴスは言葉であり理性でもあった。こうして、ホモ・ロクエンスはそのままホモ・サピエンス(知性ある人間)である。――この種の人間観が収斂してゆくひとつの突出したかたち、それが20世紀におけるソシュール記号学だと解することもできる。そこには、現代的記号論への転換を仕掛ける重要な発見があると同時に、とうてい是認できない理論的逸脱――私たちが「言語中心主義」と呼ぶもの――もある。
 まずソシュール人間について、彼らがランガージュ(langage)、つまり潜在的かつ普遍的な言語使用の能力――つまりは理性とりわけ概念化の能力を生得的に所有しているとみなした。次いで彼は、ランガージュが人間集団の場に顕在化した形態としてのラング(langue)を設定する。具体的に言えば、ラングとはおのおのの言語共同体で用いられている多様な「国語」のことである。(ただし、ラング=国語、なのではない。〈ラング〉という概念は、諸国語として現実化されるがそれ自体はいかなる国語でもありえない言語の様態をいう。)
 ラングヘのパースペクティヴは一様ではないので、ラングをさまざまな様態で捉えることができる。例えば〈行動〉という視点からは、ラングは〈話す主体〉(sujet parlant)がおこなう言語行動のパターンあるいは慣習行動とみなし得るだろう。またマクロな視点からは、ラングを話す主体のこころに組み込まれた(超個人的な)心的機序と捉えることもできる。また別の視点、例えば社会学的視点からは、ラングを社会制度と把握することもできる。いずれにせよ、ラングは一人称的なあり方を超えた「間主観的」存在者であり、そのようなものとして、ある種の「体系」(système)をなすのである。
 この体系が一人称的な場面で顕在化するとき――ラングはこの場合、アリストテレス形而上学の「潜在態」(デュナミス)としてある――パロル(parole)つまり個々の発話行為が生起する。ラングが超個人性、規則拘束性(この意味での「必然性」)などの性格を示すのに対して、パロルはつねに話す主体にかかわる偶然的属性を帯びているのだが、いまこの論点には深入りしない。――要約すると、ソシュール記号学においては、「言語」(「ことば」)という理論以前的存在者を、ランガージュ/ラング/パロルからなる系列として理論化する。この系列におけるある項はその左側の項が実現したものであり、この限りにおいて、左の項はその右の項の可能態にほかならない。
 ついでながら、三者が系列をなすことに間違えはないが、この系列を左から右への直線のように表象するよりも、むしろこの直線を垂直に立てたイメージをつくる方がソシュールの真意にふさわしい。全体としての「言語」とは、ランガージュを底辺に置き、その他の項をその上に積み上げてできた層状の構造なのである。
 ソシュールは、ラングの構成要素としての〈言語記号〉(signe linguistique)を設定した。これは全体としての発話をばらしていき、意味をなす最小単位にまで切り詰めたものである。この概念は、現代の一部の言語学者がいう語彙素(lexème)にほぼ相当するとしていいだろう。ただし厳密に言うなら、語彙素は理念的に設定された抽象物であって、例えば、walk、walks、walkingなどに通有する単位(このかぎりで、語彙素は「語根」(radical)にひとしい)であるが、ソシュールの「言語記号」には(この例でいえば)walk以下のそれぞれのアイテムが数え入れられる。こうして私たちは言語記号について最も重要な問いを問うことになる。――ソシュールは言語記号をどのような存在者と見なしたのか、言語記号の存在構造とはどのようなものか。
 周知のように、ソシュールは言語記号ひいては記号一般を二元性(dualité)の構造として捉えた。ソシュールは説明のために一枚の紙を例にもちだす。紙には表と裏がある。紙の表がひとつの次元をなすとするなら、その裏は明らかにそれとは別の次元をなす。しかもこの表と裏を切り離すことは不可能である。表裏はつねに一体として一枚の紙をつくりあげている。――この紙のように、言語記号もつねに二つの次元をそなえている。言語記号には、一面では記号表現(signifiant)、多面では記号内容(signifié)の両面がそなわり、しかも両者が一体をなしている。
 ソシュール言語学記号学の傘下にはいるそのひとつの学科として位置づけた。そのほかの記号学的学科として、彼は、聾唖者の使用するサイン、(例えば〈挨拶〉といった)儀礼行動、手旗信号などの研究に言及しているが、それらについて実際に考察を行っているわけではない。彼は基本的には言語探究者であった。しかしながら、ソシュールがこれまでの言語学者と決定的に違う点は、後者が(概して言えば)言語を他の種々の記号系とのかかわり抜きに研究してきたのに対して、ソシュールが、このかかわりの明確な自覚に立ちつつ、〈記号学的システムとしての言語〉を探究したことである。ジュネーブ講義で知られるソシュール言語学はそのまま記号学だったと言っても過言ではない。
 言語記号の二元性という主張は、したがって、記号一般の二元性のテーゼに拡張しうるものとして提起されている点に留意が必要だろう。
 いま読者が読むことができる講義録によれば、言語記号についてソシュールは、その記号表現が〈聴覚像〉(image acoustique)、すなわち発話された記号の刺激(言語的音声)が聞き手にもたらした心理学的イメージに相当し、また記号内容が〈概念〉(concept)だと述べている。
 言語記号以外の記号の場合にも当然記号の二元性が記号の構造をつくっている。ソシュール自身はこの種の構造についてほとんど語ることがなかった。しかし読者にとって、彼が言語記号について述べていることからそれを記号一般へ類推をおよぼすのは容易ではなかろうか。例えば、紙面に記された漢字は〈記号〉にほかならない。目に視覚的刺激が与えられ最終的に頭のなかに(?)〈視覚像〉(image visuelle)という〈記号表現〉が成立し、これに漢字の意味(語義)が〈概念〉として裏打ちされている、といった具合である。

[Saussure 71]F. de Saussure著、小林英夫訳:一般言語学講義、岩波書店(1971).ソシュール研究としては、筆者には異論があるものの、丸山圭三郎ソシュールの思想、岩波書店(1981)が我が国における基本的文献である。近年、ソシュール研究の高まりの結果として、講義録の新訳が試みられている。F. de Saussure著、ソシュール一般言語学講義―コンスタンタンのノート、影浦 峡・田中 久美子訳、東京大学出版会 (2007) はそのすぐれた一例である。

一般言語学講義

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ソシュール 一般言語学講義: コンスタンタンのノート

ソシュール 一般言語学講義: コンスタンタンのノート

ソシュールの思想

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