フーコー・ブッダ・グッドマン (4)

namdoog2010-02-08

 グッドマンの「世界制作論」はヴァージョンの複数性を果敢に認めている。この意味で、彼の見地は、多元主義(複数主義)(pluralism)と呼ばれる。しかしながら、この複数主義(ただ一つのこの世界(the world)だけがあるのではなく、複数の、ことによると無数の世界(worlds)がありうるし、実際にあるのだ、という哲学説)は、過去において提唱されたる類似のどんな複数世界論にも似ていない。
 思いつくままに、その種の複数世界論をいくつかあげてみよう。エストニア出身の生物学者ユクスキュルの「環世界論」によると、各々の生物種は種に固有な「環世界」に生きている。ダニは比較的単純な環世界で生活しており、鳥はそれよりずっと複雑な環世界に生きている…。このように世界は唯一ではない。複数の世界(彼の言い方だと「環世界」Umwelt)があって、それらは互いに独立している。換言すれば、二つの世界をなにか普遍的基準で関係づけることはできない。( ユクスキュル、クリサート『生物から見た世界 』日高 敏隆ほか訳、岩波文庫。)T・クーンのような科学哲学者に言わせるなら、それらの世界は互いに「共軛不可能(incommensurable)」(「通約不可能」とも)なのだ。
 ところが、ユクスキュルは、これら複数の世界のいわば基底に「客観的な」唯一の存在領域を依然として想定している。環世界は「主観的なもの」であるが、それらを支えている「客観的自然」があるという。(ちなみに、ギブソンもこれに類似した想定を保持していた。)
 他方、グッドマンは、人間はヴァージョン=記号系をつくることによって世界をつくる、という。しかもヴァージョンはたいてい「通約不可能」である。グッドマンの見地が独自だというのは、さまざまな記号系の背後に、記号という存在論的身分とは異なる、いわばほんものの実在など何も想定しないという点だ。じつは記号系の外部に世界はない。あるいは、事実上、人間的認識には外部と内部の区別を絶対的に引けるとはかぎらない。この意味で記号系は世界そのもののヴァージョンである。複数のヴァージョンが数えられれば、世界もそれに呼応して複数存在することになる。
 グッドマンの複数世界論にいっそう似たタイプの見解を唱えたのは、特異な経歴の言語学者B・J・ウォーフ(写真を参照)であろう。ふつう「サピア=ウォーフ仮設」として知られるその見解によると、われわれが話す言語がわれわれの経験を形成し組織化するという。経験とは認識であるから、この見解は「言語がその話し手の世界を規定する」ことを主張していることになる。したがって、ウォーフの主張からは、異なる言語ごとに違った世界がある、という帰結が導かれるように思える。記号系との関係で複数世界論を打ち出したという点で、グッドマンの立場に近いと言うべきだろうか。(B.L. ウォーフ『言語・思考・現実』 池上嘉彦訳、講談社学術文庫。)
 ウォーフが、例えばホピ族の世界がいかに自分たち(=英語のネイティブスピーカー)のそれと違っているかを論証し説明できているという事実は、単純に考えて、ホピの世界の記述を英語へ翻訳できることを示している。そうすると、サピア=ウォーフ仮設については、次のような二つの評価しかできないのではないか。
 一つ目の評価として予想できるのは、互いに「通約可能性」の関係にある二つの認識システムは、絶対的な意味では「複数」とは言えないというものだ。両者を含みつつもっと包括的な一つの認識システムがあるかもしれない。――これは認識の相対主義としてはかなり弱い立場である。だがグッドマンの複数主義は、これよりはるかに強い立場を代表している。
 つぎにサピア=ウォーフ仮設が、強い相対主義を表現しているという評価もありうるだろう。(この種の強い相対主義を言語の観点から周到に理論化しようと努めたのは、ソシュール言語学であろう。その試みが成功したかどうかは別問題だが。)だがこうした見地は、いずれ窮地に陥るに違いない。異なる言語(ホピ語、英語など)が各々の流儀で互いに通約できない経験を構成するなら、そもそも各々の言語の違いが大きすぎて、互いに翻訳できないはずである。こうして不可解なモンスターが出現する。つまり〈言語であって、しかも翻訳不可能なもの〉である。
 なぜこうした存在者が不可解なのだろう。なにかしらのデザインなり音声なり身振りなりが〈言語〉である証拠はただ一つしかない。それが表現として(=何かを意味するものとして)「理解可能である」ということだ。こうした事態を人々はふつう「翻訳ができる」と称するのではないのか。
 こうして、サピア=ウォーフ仮設はどちらにしても強い意味での複数主義にはなりえない。

 さて次にグッドマンの多数主義にともなう「非実在論」(irrealism)の特徴を確かめておこう。グッドマンの多数主義に対抗して、実在論者は、たとえ複数のヴァージョンが可能だとしても、厳存する唯一の世界とヴァージョンを対応させて、その真偽や正否を決められるはずだという。しかし(理論と現実との)〈対応〉という観念に困難が含まれることを別にしても、ヴァージョンの複数性は、ヴァージョンの実在論的読み(realistic reading)が不可能なことを物語っている。正しさのうえで何も差を生まない複数のヴァージョンがある以上、実在する唯一の世界をどこかに固定するわけにはゆかないのだ。
 ポストモダンの思想家の口真似をして、世界はヴァージョンの戯れへと解消される、といってもかまわない。こうした見地を反実在論(anti-realism)と呼ぶのは不適切だ。グッドマンの世界制作論は、実在論に反対する形而上学あるいは観念論(外界は実在しない、実在するのは単なる観念だけだ、という学説)を認めるものではない。むしろ常識的な意味では外界の実在を喜んでうけいれる。彼の複数主義は、実在論反実在論という形而上学的レベルとは異なる次元に立脚している。この限りで「非実在論」という消極的な呼び名が適切だろう。ir-はin-と同じで、単なる否定をいうだけだ。例えば、inorganicとは、organic(有機的)ではないこと、「有機的」の否定としての「無機的」を意味する。
[追記:非実在論との関連でひとつの注を記したい。グッドマンの非実在論が仏説に深く通う面をもつことは、唯識派の見解とつきあわせることによって明らかになるだろう。ここでは一通りのことしか書けないが、多少補っておきたい。唯識思想についてよくある誤解(僧籍にある人も含めて)は、唯識思想が「唯心論」だという断定である。唯心論は実在するものの形而上学的身分に関して、それを質料のないものと捉える。デカルト主義的二元論(古代からこの種の二元論はあった。デカルトはその近代的表現を精緻に行ったに過ぎない)の想定の下では、「質料のないもの」とは端的にいって物質ではないもの=心的なもの=観念、あるいはその他名称によらずこの種のもの、のことである。もしそうなら、なるほど唯識思想は唯心論と同じことを言っているように思えてくる。

 これは誤解である。<識>vijnaptiは〈知らしめる〉を意味し、「唯識」とは文字通り「自己と世界の全体は阿頼耶識が知らしめたものに過ぎないこと」を主張している。とはいえここには物心の二元論の想定が伴うわけではない。〈自己〉と仮に呼ばれたものはけっして心的実体ではないからだ。

 〈識〉は無差別に差別をもたらしつつ「区別して知る」働きであり、働きをになう当のものでもある。こうした原義を考えるとき、現代語でそれを表現する語としてぴったりなのは、そう「記号」なのである。グッドマン(それにパース)の記号主義の着眼点は、記号の形而上学的身分が、伝統的な質料や形相を超えているということにあった。

 非実在論の〈非〉は単なる否定としての純粋な無である…と考えると、仏説の〈無〉や〈空〉に連想がおよぶのは自然なことだろう。]
 多数主義としての世界制作論が、構成主義のあるべき構えをとっている点に留意しなくてはならない。ヴァージョンをつくりながら、同時にわれわれは世界を「つくる」。というのは、ヴァージョンを離れたどこかに、完成済みの現実などはないからである。ましてや現実化されることをただ待つだけの可能世界などを認めることはできない。(この点はいちはやくベルクソンが明らかにした。)グッドマンの見地からすれば、多様なヴァージョンに世界を解き放ったのは、「可能世界」なる「第二の」実在を捏造することなく、しかもどこまでも「具体的な現実」に密着するためなのである。
 一見すると、グッドマンの世界制作論には、フーコーの系譜学がターゲットにした現実の歴史的構成というダイナミズムが欠けているように見える。確かにグッドマンが、プラクティス(現実的行動、制度、慣習、文化など)の系譜学を記述していないのは事実である。しかしながら、こうして見てくると、「世界制作」(worldmaking)という思想そのものに、系譜学的分析の理論的可能性が組み込まれていると言わなくてはならない。
 グッドマンの世界制作論が、フーコーの考古学=系譜学と遜色のない実践的要請をともなうことを繰り返しておくことは無駄ではないだろう。現実は変わる、いや変えうるのだ。この根本的想念はまたブッダのものであった。  (つづく)