記号論の再構築のために (1)

namdoog2012-03-20

記号論の再構築のために――問題と構図

 記号論(semiotics)とは何だろうか。歴史的な事実として見れば、記号論は、20世紀の初めに期せずして(だが真実は思想史的必然性によって)記号についての学(sémiologieないしsemiotic)を異口同音に提唱した二人の人物ソシュールとパースの業績が呼び起こした大きくて広範な反響――そのうねりのすべてのなかに具現されている。しかし理論的・概念的な視点から見るなら、〈記号論〉はいま再吟味(re-examination)と更新(renewal)の主題として人びとの目のまえにある。
 記号論の理論構成については、さまざまな意見がありうるだろう。とはいえ、それが文字どおり、記号に関する基礎的理論(the general philosophical study of signs and symbols)であることに、大方の異論はないだろう。もちろん細かく見るならば、記号論の全体としての構成は、ほかの学問と同じように、多次元にわたっている。例えば、記号論の体系を編成するために、基礎理論と応用理論、各種の領域的理論(例えば、音楽記号論、絵画の記号論、衣服の記号論など)、研究史等々に区分するやり方があり得るだろう。しかしここでは、もっぱら記号論の原理的問題だけに考察を絞り込みたい。とはいえ紙幅の制約のために、以下の議論が、せいぜいのところ、記号論再建のための方向性を概説するのに終始するのをお断りしておきたい。

1 教室での観察から 
 記号論にとって無視しようにもそうはできない原理的問題がある。なぜなら、この問いにたいする明らかな見解をもたないなら、そもそも記号論自体が成立し得ないからだ。これは記号論にとっての構成的問いにほかならない。
 記号論の構成的問いとは、言うまでもなく、「記号とは何か」という問い(これを短く「記号の問い」と呼ぼう)以外ではない。換言すれば、記号論は――記号の存在構造の解明であるかぎりでの――「記号の存在論」から開始されるべきものである。
 (どの学問でも事情は同じであるが)記号の存在論への手掛かりはすでに与えられている。「記号」について何がしかの理解をあらかじめ抱いていない人はいない。この理解が記号論への確実な礎石となる保証はどこにもないが、少なくとも考察の糸口として――そしてあくまでもただ糸口としてだけなら――大きな利益をもたらすだろう。解釈学派の指摘するように、「常識」――これは学問知から見れば「偏見」(Vorurteil;「先んじた判断」)とさえ言いうる――なしに学問知はあり得ない。ところで筆者は記号論の講義をいくどかおこなっているが、そうした場合、講義の初回には受講生に〈記号〉の例を挙げてもらうことにしている。
 彼らが好んで最初に挙げるのが、化学記号や代数の記号だ。そのほかに、以下のような例がずらりと並ぶことになる。文字、看板、ネオンサイン、交通標識、地図の記号、各種のロゴマーク、等々。
 意外にも彼らが忘れがちな例の一つに言語がある(この見落としの理由は何か。これは興味ある問題だが、いまは立ち入らない。一方、手話は見落とされることが比較的に少ない。これにはやはり意味があるだろう)。そして絵画が記号であることの理解を切っ掛けとして、矢継ぎ早に、ダンス、身振り、表情、写真、音楽、建築、彫刻などが、やはり記号の形態であることが理解される。さらには、さまざまな計器(例えば温度計)が記号としての機能をもつ点もただちに了解される。この作業はまだ続くのだが、ここでひとまず切り上げてもいいだろう。
 記号の問いへの常識的理解の核心は、これらの例から推定するに、記号が何らかの実物(real things)(世界に帰属する存在者)を代理するものである、という点にある。化学の教科書の記載の中で、元素記号のCuは、明らかに、銅なる金属の代わりに遣われている。同じことだが、この事態を、メタ言語を使用して「Cuは銅を代表する(意味する、指す、など)」と言い表すことができるだろう。この理解は、記号がどのような働きをするのかという問い(つまり〈記号機能〉の問い)にかかわるが、これは、冒頭に述べた記号の存在構造の一面を明らかに物語っている。つまり、記号とは何かという問いはおのずと記号の働きと結びつく。
 常識的理解には、これとは別の記号の存在構造にかかわる含意も伴っている。すなわち、何か存在者を代表するものとしての記号は、それ自身が世界に帰属する存在昔だという理解である。記号も実物なのである。こうして、テキストに印刷された元素記号は、あるパターンをそなえた少量のインクにほかならないし、ネオンサインは、ガラスや金属などから製造された物体である。
 以上に確かめた記号の二つの構造特徴から、世界についての一種の形而上学がおのずと従うだろう。それはやはり常識が抱いているある種の世界像にほかならない。すなわち、世界はもろもろの存在者――感覚できるものとできないものとを含めて――を容れた器のようなものなのだ。あるいは、世界は存在者の総体――その意昧でのユニヴァース――として、それを知覚する個々の人間からは独立に存立する「客観的な」リアリティである。こうした形而上学を、しばらく「常識的実在論」(commonsense realism)と呼ぶことにしたい。
 それは哲学史で「素朴実在論」(naive realism)と称されることのある形而上学とはいくつかの点で異なっている。第一に、素朴実在論者が、世界は感覚するとおりに存在すると「素朴に」確信しているとすれば、常識的実在論者はそんなうぶな見地を取らない。錯覚や幻覚が私たちをしばしば欺くことを知っているからだ。だから第二に、常識的実在論は、均一で同質的な構成物ではなく――パッチワークといえばやや大袈裟になるが――いくつかの異質な成分の継ぎはぎとしての理論である。一般に、これら成分の一部は認識主体の経験から、また他の一部は主体に授けられた教育に由来している。


2 せめぎあう二つの記号観 
 思想史を顧みるとき、記号の定義ないし本質規定として、真っ向からせめぎあう二つの見方があったのがわかる。初めに、いましがた確認した常識的実在論を土壌として育まれた記号観がある。これを「実在論的記号観」(RS)と呼ぼう。この記号観に従えば、
   (RS) 記号とは、ほかの何かを代表する何か(something that stands for something else)である。
 こうした記号観の表明を、例えばアウグスティヌス(Augustinus)や西洋中世の文獣にたどることができるだろう[Nöth 90]。こうした記号観がいかに常識に適っているかを、筆者は教室で確かめることができた。記号はそれ自身が何らかの存在者ないしモノないし実物であり、それがほかのモノを代表する(意味する、指す、など)とされる。すなわち、代表という機能(repre-senting) は(少なくとも)二項関係なのだ。そして歴史上、この関係を支えるのは、人びとの言語的慣習や因果関係だとされてきた。交通シグナルで赤ランプが「停止せよ」という命令を意味するのはなぜか。それは赤ランプの点灯がそうした命令だという規約(道路交通法)が定められているからである。またある種の発疹が麻疹(はしか)という病気を意味するのは、病気の本態と症状に因果関係があるからである。ともあれ、ここで確認しておくべき点は、<記号機能は関係である〉という理解にほかならない。

 ところで、思想史を顧みると、これと全く異質な記号理解がいまに伝承されてきた形跡も歴然としている。この理解の含意するものは、実在論的記号観よりむしろ貧しい。なぜなら、この見地は常識的実在論なる形而上学を引きずっていないからだ。すなわち、
   (ES) 記号とは、意味するところのもの(something that means)である。
 この見地をどんな名で呼んだらよいだろうか。形而上学の対比をいやがうえにも鮮明にするために、これを「内部存在論的記号観」(ES; endo-ontological view of signs and symbols)と称することにしよう。この種の見解の詳しい説明は後におこなうが、要するに、この種の記号観では――常識的実在論に反して――記号の外部の世界がリアルかどうかという問題に無頓着なのである。実在論的記号観でも、記号が意味をもつという事情に変わりはない。交通シグナルの赤信号が「停まれ」という命令を意味しているかぎり、どちらの記号観に従うにせよ、それは確かに記号である。
 残された問題は、後者の記号観の比較的に少ない概念的内包がどのような形而上学や記号観への基本的パースベクティヴを要求するか、それを闡明することだろう。
 記号を枚挙する際、従来ややもすれば見過ごされてきた記号のタイプがある。これはいくら強調しても強調し過ぎることがない事実である。一つには〈見本〉であり、さらには〈表情〉である。どちらのタイプも、実在論的記号観という独断のまどろみから私たちを覚醒させるインパクトを内に秘めている。見本や表情に二項関係が認められるだろうか。ここに、ある湖の水質を調査するためのサンプルがあるとせよ。湖の水質は湖水に含まれた種々の物質によって決まる。このサンプルはサンプル以外のモノを代表するわけではない。しかじかの水質、それはこのサンプルが具現している。あるいは怒りの表情。ある人物が眉をあげ、眺を決し、顔を紅潮させて怒りを顕にしているとする。怒りは現になされている身体的表出とは別のモノではない。そうではなく、しかじかの身体的表出がそのままある怒りを意味するのだ。
 ここで強調したいのは、実在論的記号観がこうした記号のタイプをうまく扱えないように思えるのに対して、内部存在論的記号観はわけなくこれらのタイプを受容するという点である。換言すれば、実在論的記号概念の外延は、内部存在論的記号概念のそれより狭い(この観察は、伝統的論理学における、概念の内包はその外延に反比例するという想念と折り合いがいい)。
 私見によれば、記号への根本的に異なるアプローチが二つの相克する記号観をもたらした。記号への指示論的アプローチ(referential approach)が実在論的記号観を生んだ[Benveniste 83]。 そして記号へのカテゴリー論的アプローチ(categorizing approach)が内部存在論的記号観を生んだのである。記号が何かと関係する、という観念が指示論的アプローチの奥底に横たわっている。また、存在者にラベルを貼り事物を分類するという想念が、カテゴリー論的アプローチの基底にある。おのおののアプローチは異なる形而上学、異なる意味論、異なる記号の存在論を要求するだろう。それぞれの差異を明確にすることも小論の目的の一つとなる。


*この文章は、『人工知能学会誌』、Vol.17, No.6 (2002年11月)に掲載された「現代記号論の構想」に、今回あらたに加筆してなったものである。書き加えた部分は表現の不適切さや言葉たらずを改善するためのものであり、原論文の主張や論旨にはまったく変更がない。原論文に筆者はいまでも格別の感懐をいだいている。それというのは、依頼され執筆した論文であるにもかかわらず、編集長がその論文で展開した筆者の議論に愚かで不当な横やりを入れてきたからである。過去の話となった今その経緯について詳しく述べることはしない。この機会に明言しておきたい点はただひとつ、原論文が打ち出したもろもろの論点が「人工知能」論者には理解の外にあったこと、それらはあたかも喉に刺さった棘のようなものだったという事実にほかならない。

[注]
[Nöth 90]しばしば、記号とは だという定式が用いられた。W. Nöth、Handbook of Semiotics、lndiana University Press、 Bloomington and lndianapolis、 p.17(1990)
[Benveniste 83」この記号観の二別に注意を促したのは、バンヴェニスト(E. Benveniste)であった。E.Benveniste著、岸本通夫監訳『一般言語学の諸問題』、みすず書房(1983)を参照。彼は、これら両様のアプローチに対応させて、記号一般を「意味論的記号」と「記号論的記号」に二分する。    (つづく)


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