実在性のカテゴリーについて――記号主義から考える(4)

namdoog2007-07-22

 「記号主義」(semioticism)は筆者がグッドマンの形而上学を特徴付けるために翻訳(グッドマン/エルギン『記号主義』(みすず書房、1999);原タイトルはReconceptions in Philosophy and Other Arts and Sciences, London:Routledge, 1988.
)の表題として使用した用語である。ただこの用語そのものは最初『パース・ジェイムズ・デューイ』(上山春平編、中央公論社、1969)で上山によってパースの形而上学を呼ぶために遣われた。そして後にパース研究者の米盛裕二が『パースの記号学』(勁草書房、1981)でこれを継承することになる。
 筆者は「記号主義」がパースの見地だけにあてはまるとは思わない。言うまでもなく、パースとグッドマンそれぞれの哲学はまったく別個のものである。しかし両者には本質的な共通点がある。すなわち、認識と思考の対象となるあらゆる存在者の存在性格が<記号>であるという根本認識――これである。
 この共通な考え方を消極的な表現で言い表してみよう。この見地は、人間が行うあらゆる思考と認識の対象は(記号性に媒介されないという意味で)<直接的なもの>ではありえない、と言い換えることができるだろう。古来、直接的なものの認識は<直観>と称されてきた(古典的な例はプラトンにある)。従って、記号主義を「直観を排除する認識論に基礎をもつ形而上学」と言ってもいい。
 ブラックバーン実在論の定式の1)は、これだけを取り出せば特に実在性の問題に触れるところはない。しかしこれがその他の基準と一緒にされるとき、1)がにわかに問題の影を投じ始める。3)が実在論の形式的排他性(formal exclusiveness )を語っているとすれば、2)は実在論の内容的排他性(content exclusiveness)あるいは成立根拠を語っている。とりわけ2)は記号主義の足許を掘り崩す要因をなすがゆえに、記号主義者は決してこれを容認することができない。
 とはいえ、2)については曖昧な観念が少なくとも二つあることを指摘しておかなくてはならない。記号主義を精確に理解するためには、こうした曖昧さを拭い去る必要がある。同時に、<実在性>のカテゴリーを正しく理解するためにも、これらの観念の曖昧さの自覚が是が非でも必要である。
 曖昧な観念の一つ目は、<言語あるいは概念図式>であり、二つ目は<われわれ>である。この二つの観念は、後者が主体(subject)(言語学者のいう動作主agent)を表し、前者が主体の行為ないし働き(action, activity)を表すというかぎりでワンセットをなす観念なのである。それぞれについてコメントしておきたい。
 ブラックバーンが<言語>ないし<概念>という場合、その言語観や概念観は20世紀を支配した正統説の域を超えることがないと思える。しかしわれわれが機会あるごとに指摘してきたように、正統的な言語観ないし概念観は全面的に更新されなくてはならない。ソシュール流の<記号システム>としての<言語>ではなく、われわれが押し出すのは、<身体の動き>(bodily move)あるいは<所作>(gesture; geste)としての言語である。この更新にまさに呼応して、<概念>には単に言語化され分節化された理念的存在者だけではなく、<非言語的概念>やアナログな図式なども包括されることになる。
 次の<われわれ>であるが、ふつうの文法がいうように、一人称複数(the first person plural)とこれを理解すると、単に<多くの主観性>、あるいはもう少し厳密にいうなら、<二つ以上の主観性>がこの<われわれ>の意味するものになるだろう。しかしこれは致命的に誤りである。なぜなら、これでは、何か<主観>という実体を想定することになるからである。この種の主観はしばしば古典的な哲学者が<心>とか<精神>などと呼んで来たものに他ならない。
 <われわれ>とは主観と主観の<間>という関係性そのものである。換言すれば、問題は実体としてのモノ(例えそれが精神的実体であろうが)ではない。そうではなく、問題は<主観>として虚の焦点をなすものを関係付けるその関係そのものなのである。その意味で<われわれ>とは<間主観性>(intersubjetivity)だとしなくてはならない。
 しかも、その存在様態が問題である。古典哲学は、主観を精神的な存在者と見なしてきた。しかし言語や概念の<われわれ>はむしろ<身体性>なのである。こうして、言語やコミュニケーションで問われなくてはならないのは、<身体的な間主観性>つまり<間身体性>(intercorporeité)なのだ。(ここは詳説の場所ではないが、こうした存在論を20世紀において掘り下げた功績はほとんどメルロ=ポンティ一人に帰せられる。) 
 以上の観察をまとめてみよう。定式の1)は単純にそれだけを取り上げて解釈する場合には特段の問題をかもすわけではない。それはわれわれが自然な態度で生きる世界に無難にあてはまる言明であろう。(「自然な態度」とは、現象学者の用語法である。すなわち、「超越論的主観性」を生きる態度あるいは「現象学的還元」を遂行する態度を体得した人間すなわち<哲学者>として認識の構えをとるのではなくて、<市井の常識人>として認識をする、その営みの様態を「自然な態度」と称するのである。)
 だが記号主義は2)を認めることはできない。2)の記号主義版はだいたい次のようになるだろう。

2’)このコト/モノが存在することは、われわれから独立のことがらではない。すなわち、これらのコト/モノは間身体的な工作物(artifact)であって、われわれの言語ないし概念図式の産物なのである。

 記号主義は無条件に<実在性>のカテゴリーに反対するものではない。むしろ逆なのだ。いわゆる実在論がある種類の存在者だけに真の実在性を認め、他の形態の存在者を単なる「現象」とか「仮象」とか呼んでニセモノ扱いするのとは異なり、記号主義は複数の種類の存在者に<実在性>を認める。そのかぎりにおいて、記号主義者は<実在性>に関して寛容だと言えるだろう。
 記号主義における<実在性>のカテゴリーは、このように、あくまでも、1)と2’)とをセットにして把握されなくてはならない。
 ところで、定式の3)に関して記号主義はどういう態度を採るのだろか。もう一度3)を確認しておこう。それは筆者の解釈では、実在論の形式的排他性(formal exclusiveness )を語る定式である。

3)Sを使用してわれわれが行う言明は他の言明に還元できない。

 結論を言うなら、(予想に反して?)記号主義は3)を妥当な主張として受け入れる。3)は一見すると、記号主義者の寛容さに反する主張のように見えるかもしれない。しかしこの印象は誤りである。
 1)2’)3)のセットから導かれるのは、記号主義が内包するその存在論的な複数主義(pluralism)にほかならない。すなわち、一通りの概念図式に即した実在的世界があるとすれば、他のタイプの概念図式に対応する実在的世界もまたあると言わなくてはならない。なぜならば、3)が言っているように、Sを使用してなされた言明はある意味で絶対的だからである。
 例えば、グッドマンが好んで引く例なのであるが、数学的な意味における<点>という概念は、ある幾何学の体系においては、a)二本の直線の交わりによって定義されるが、他の体系においては、b)3つの平面の交叉によって定義される。(他にも<点>を構成するやり方はあるだろう。)それぞれの体系において構成的に定義された<点>の概念は他の体系における<点>の概念には決して還元することができない。その意味でそれぞれの概念は「絶対的」なのである。
 以上のなかば抽象的な議論をグッドマンの『世界制作の方法』にあたって具体的に確認することにしたい。  (つづく)