実在性のカテゴリーについて――記号主義から考える(5)

namdoog2007-08-01

 グッドマン『世界制作の方法』(みすず書房)の第5章の冒頭を引用することにしたい。


 ときたま少々せっかちに「目の前にあるものが見えませんか」と私に訊ねる人がいる。まあ、見えるとも言えるし見えないとも言える。私には目の前の人々、椅子、書類、それに本が見えるし、また目の前にある色、形、パターンも見える。しかし私には、これもまた目の前にある分子、電子、赤外線が見えるだろうか。また私にはこの州、合衆国、宇宙が見えるだろうか。実のところ、後者の包括的存在者に関しては、私に見えるのはただその一部分にすぎない。しかしそう言うなら、人々、椅子等についてもその一部しか見えないのだ。ところで私が本を見、本が分子の集積であると言うなら、私は分子の集積を見るということにはならないか。しかし、他方、分子はひとつも見えないのに、分子の集積は見えるとはどういうことだろうか。
 「分子の集積」という表現は私が見るものを記述する精妙な方式であって、単なる視覚によっては得られない。だから、分子の集積を見るといった言い方はできないのである。それなら同様に、私が磁石や毒キノコを見る、といった言い方が不可能になりはしないか。私が講義の際、フットボールのコーチを見たかどうかを誰かに尋ねられ、私が「見なかった」と答えるとしよう。しかし、もし彼が私の聴講者に混じっていたのが事実なら、私はもちろん聴講者全員を見たのである。私は彼を見たのだが、見なかったと言う。なぜなら、真ん中の八列目右端の男がコーチだとは知らなかったからである。

 グッドマンはこの引用に続けて、ここで提起された問題――知覚によってモノの実在性が確証されるとはどういうことか――に取り組むつもりはないと明言する。彼がこの章において取り組もうとする問題はむしろ「目の前にないものを見る」という事例に関して哲学的考察を加えることなのである。「目の前にあるモノ」とは<知覚が確証する実在性を伴う存在者>を意味する。グッドマンに代わって、提起された問題に関していささか考えをめぐらしてみたい。
 知覚の対象とは何だろう。(知覚されたものは実在する、ということが、知覚という認識様態の含みであることは言うまでもない。知覚が壊れれば幻想や錯覚になってしまう。)ふつう人はミディアムな事物(椅子、本、書類など)やそれが持つ特性(色、形、パターンなど)を何の疑いもなく知覚対象に数えている。また通常はミクロな事物(分子、電子など)は知覚対象には含めていない。しかしミクロな事物に関してはさしあたり二つの問題がある。
 ひとつは、実験方法の進歩や観測機器の発達によってミクロな事物を肉眼で見ることがいまや可能になっている。例えば、ニュートリノ観測装置「スーパーカミオカンデ」の開発によって素粒子ニュートリノを知覚的イメージとして検出できたことが小柴博士のノーベル賞受賞の直接の理由であることはよく知られている。〔関連する記事を孫引きすると、この現象について、1998年6月にスーパーカミオカンデ共同実験グループは、宇宙線が大気と衝突する際に発生する大気ニュートリノの観測から、ニュートリノ振動の証拠を99%の確度で確認した。 また、2001年には、太陽からくる太陽ニュートリノの観察からも強い証拠を得た、とのことである。〕観測機器はいわば感覚器官の延長である(そのごく単純な例は視覚器官つまり目の延長としての眼鏡)。それゆえ、ある意味で人はニュートリノを目で見ることができる、と言わなくてはならない。
 ただし<ミクロな対象を眼で見る>という言い方は、<ミディアムな対象を眼で見る>ことと端的に同じ意味を表すわけではない。二つの表現に出現する「眼で見る」という語句は、形はそっくりであるが、その意味は同一ではなく、ただ類似しているに過ぎない。換言すれば、前者は単に類比的な意味で後者と同義なのである。この類比の構造は、ミディアムな対象の知覚を基礎としてそこから拡張するかたちで成立している。この方向性は可逆的ではないだろう。(認知意味論では、身体の経験の領域から他の領域への写像が隠喩を構成すると説かれるが、この写像も不可逆的である。)
 <ミクロな事物の知覚>という事態を、記号主義の言葉遣いで説明してみよう。スーパーカミオカンデを初めとする種々の観測機器ともちろん量子力学などの科学理論(記号システム)さらにこれらを使用して実験や観察を行う、技術者や科学者その他からなるグループの営為、あるいはそれを統御する制度やルールなどの総体を、トマス・クーン(T. Khhn, 1922-1996)にならって<ニュートリノパラダイム>と呼ぶことにしよう。
 観測機器そのものはモノであるが、道具である以上一定の機能を有しており、そのかぎり記号作用を発揮する。また制度やルールが記号システムであることは明らかである。技術者の営みが記号的であること、研究者の理論的考察が記号機能であることもまた明らかであろう。こう考えてくると、<ニュートリノパラダイム>とは、実在性を伴うミクロな対象を構成的に生成する、ある固有性をもつ記号システムNPにほかならない。
 簡単に言うと、NPがある素粒子を制作したのであり、制作されたものであるかぎりで、ニュートリノは、実際、実在するのである。
 ミクロな対象に関する二つ目の問題は、グッドマンが指摘しているように、その他の対象はミクロな対象の集積(accumulation)であるのに、どうして、例えば「ミクロな対象の集積としての本」を見ると言ってはいけないのか。それはやはりグッドマンが答えているように、「ミクロな対象の集積」は説明のために導入された用語法であり、実在性を棚上げした単なる言い方(façon de parler)の問題に過ぎないからである。
 他の例で言うと、毎日の新聞には「平均株価」が報告されているが、「平均株価」で取引される株が実在するわけではないから、「平均株価」に実在的な意味はない。それは株式市場の動向を示すための便利な言い方に過ぎないのである。 
 以上の考察の教訓は、実在性に関しては、<ミクロな対象>とそれ以外の対象――<ミディアム>と<マクロ>を加えればほぼ十分であろう――のレベルを混同した語り方をしてはならない、ということである。(ちなみに、<ミディアム>とは人間の環境を構成する要素(椅子、書類など)、<マクロ>とは、グッドマンの例で言うと、合衆国とか宇宙のオーダーを言う。森は見えるからミディアムだが、自然環境はマクロであって、肉眼では見えない。)それぞれのレベルの対象はそれぞれを構成する記号システムとの対応からそれぞれの実在性を得る。従っておのおののレベルをまぜこぜにして話をすれば、人は存在論的過誤を犯すことになるだろう。
 磁石や毒キノコについてグッドマンが指摘している問題は、いわゆる性向(disposition)や傾向性(propensity)の問題に属する。これは「対象のオーダーと実在性」の問題と類似している印象があるものの、あくまで別問題である。
 性向の論理的構造が「反事実的仮想」のロジックに関係することは確かであろう。毒キノコを見てもそれが持つ毒性が目に見えるわけではない。しばしば地元の人でさえ、誤ったキノコ分類法(視覚的特徴によってキノコの毒性を判別する方式)の犠牲になる。毒キノコの毒性は、<もしこれこれの量のこのキノコを食べたなら…>という、事実に反する条件にかかわる記述でしか表現できない。他方、宇宙が直接目に見えないのは、端的に肉眼の機能の問題である。例えば、もし私が創造神の立場に立てるなら、自身の作品としての宇宙を目の当たりできるかもしれない。神の肉眼には宇宙が見えるのである。しかしこの言い方に含まれたある種の「条件」は、もちろん事実に反する仮想には違いないが、可視性という属性を有する宇宙とは切れている。毒キノコにかかわる反事実的仮想が、まさにキノコにかかわるのとは事情が異なるのだ。したがって、われわれはグッドマンが提起した性向の問題に当面立ち入る必要はないと考える。
 グッドマンは上の引用の中で、「包括的存在者」を人は直接見ることができないというなら、身の回りの事物(私たちの言い方だと「ミディアムな」対象)、例えば椅子についても同じではないか、という指摘を行なっている。確かに、その都度の椅子の知覚は、椅子全体あるいは椅子そのものを私たちに開示するわけではなく、例えば、椅子の前面の姿や斜め上から見た姿など、つまりは椅子の部分的視覚イメージを引き渡すに過ぎない。
 この観察は正しい。この論点に対してどういう対処をとるべきか。少なくとも二つのやり方があるだろう。一つは、事物の一部しか見ないのに「事物そのものを見る」という言い方には矛盾があり、この矛盾は何らかの算段で解決されるべきである、と考える立場。もう一つは、確かに事物の知覚には「矛盾」があるかもしれないが、これは解消されるべき何かではなく、まさに知覚はこの「矛盾」によって賦活されている、と考える立場。
 私たちは後者の立場に組することを以前から主張してきた。すなわち、知覚の構造は、一部が全部に匹敵するという特殊な論理(ある種のメレオロジー)を具えている。換言すれば、知覚は換喩的構造を具えている。(拙著『我、ものに遭う』新曜社、あるいは、『新・修辞学』世織っ書房など)。他のレトリックあるいは比喩も、「矛盾を引き受ける」 ことで成立している。例えば、大半の隠喩は――例えば「あの男は敵の犬である」――字義的には偽である。そして、偽であるからこそ、隠喩としての効果が生まれるのだ。 
 ある事物(モノやコト)が実在する、という私たちの了解には、その事物がいかにあるか(存在様態あるいはSo-sein)の無限定性という意味が含まれているように思える。具体的なこの椅子の見え方は一通りではない。すこし視点を移動すればたちまち前とは異なる椅子の姿が出現する。この場合は、知覚的事物の存在様態が無際限であると言い表すことができるだろう。事物が実在するということの意味には、明らかにこの無際限性が含まれている。
 この論点はかつて現象学者が強調したことだった。その議論には後に触れることにして、ここでは、知覚的事物のメレオロジカルな構造によって、実在性のメタ属性=無際限性の説明がつくはずである、という主張を行いたい。
 その都度、知覚に与えられる事物の姿は、事物全体あるいは事物そのものの一部に過ぎない。だからこそ、事物は各種各様の姿の無際限の展開のうちに立ち現れる。こうした事態こそが、事物が実在するという意味の一部(ここにもメレオロジカルな構造があるのかどうか)なのである。
 では、問題が具象的な(あるいは、具体的なconcrete)事物ではなく、抽象的な(abstract)対象の場合に、その実在性の意味をどう理解すればいいのだろうか。一見すると、例えば数学的存在者のような抽象的対象について、「それが実在する」と言いうるなら――なお、こうした見地には反対する向きもあるかもしれないが、抽象的/具象的という区別は絶対的ではないという私たちの立場からは、この種の言明は不可能ではないと考える――その実在性には存在様態の展開とかその無際限の展開という含意はないように見える。はたしてどうだろうか。バシュラールはかつて数学的存在者の実在性について、次のように述べていた。(つづく)