記号論の再構築のために(3)

namdoog2012-04-10

4 ソシュールの記号概念 

 彼による記号の分析は――この点はうっかりすると見過ごしがちだが――実に重大な含意を伴っている。
 第一に、彼の記号概念とともに、記号への指示論的アプローチからカテゴリー論的アプローチヘの転換が決定的に成就されたのである。第二に、この転換には、形而上学ないし世界観の更新が伴っていた。常識的実在論から内部存在論への更新である。どういうことか、しばらく説明を試みたい。
 ソシュールは、ジュネーブ大学における有名な講義で、現に流布している言語理解を「名称目録(nomenclature)観」と呼んで厳しく批判した。この批判は例えば次の遺稿にも読むことができる。「言語哲学者たちの考え方の大部分は、我々の始祖アダムを思わせる。つまりアダムはさまざまな動物を傍らに呼んで、それぞれに名前をつけたという。それは事物の名称目録という考え方である。これによれば、まず事物があって、それから記号(signe)だということになる」[frag. 3299]。
 ソシュールの論点をすこし敷衍してみよう。――『旧約聖書』の創世記の記載に従えば、万物を創造したのは神である。もちろん人間の祖であるアダムも、神が創り給うたのであった。アダムは神から言葉の能力を授けられているので、それを用いて、世界に見いだされるあらゆる存在者に、「これは「象」、あれは「馬」・‥」という具合に、ひとつひとつラベルとしての名称を貼っていく。このようにして、万物に名称が与えられることになったのだ。この神話の通りだとすると、言語は多数の名前のリスト、つまり「名称目録」だということになる。――こうソシュールは言うのである。
 厳密にいえば、言語にはモノの名称以外の要素が含まれることがある。例えば、日本語の格助詞「が」や英語の前置詞「on」が貼りつけられるはずのモノとは何だろうか。そんなモノがあるとは考えにくい。古代ギリシャの文法家はすでにこの種の要素を知っていた。言語学や論理学では、これらの要素を「共義的な」(syncategorematic)語と呼んでいる。つまり、それ自体では独立した意味をもたず、他の語と合わさって初めて意味を獲得するような語のことである。(他方、「名称目録」に含まれる名称=ラベルのような語はカテゴレマティック(categorematic)つまり「独義的な」[これは仮訳である]という。)
 しかしこの観察は必ずしも言語の名称目録説を排除しない。というのは、あらゆる言語が、それが誕生したばかりのとき、独義的要素のみで成り立っていたかもしれないからだ。幼児が最初に覚えることばがどうやら共義的ではないという観察がこうした仮定をもっともらしくしている。
 ソシュールは、もちろん神による万物の創造という論点は棚上げして、ただこの種の言語観における有意な存在論的含意だけに注目している。なによりも、言語の発動以前に世界にはあらゆる事物がすでに存在していた、という含意が重要だろう。換言するなら、名称目録観によれば、言語の主体からは独立に(「客観的に」)あらゆる存在者が実在することになる。これは、私たちが「常識的実在論」と呼んだ形而上学と同じものであって、ソシュールは記号観の革新をつうじてこの種の形而上学を覆したのである。
 とはいえ、ソシュールはこの場面でメタ記号的振る舞い(つまり記号学的言説の遂行)を適切におこなっていないきらいがある。遺稿断片にはこうあった、「……まず事物があって、それから記号(signe)だということになる」。これだけ読むと摑みそこねてしまいがちな、記号に関する論点がじつはある。それは、記号の形而上学的身分の問題である。事物と記号の創造の順序の如何は問題にはならない。むしろ事物と記号の両方がいったん創造された後にそれらが並列される、という事態が重大なのである。言い換えれば、問題は事物と記号の存在論的並列であり、記号のモノ化にある。あるいは、これを言語に即して言うなら、言語要素(言語記号)がほかの存在者と並ぶある種の存在者にすぎないこと、これが問題なのだ。記号ないし言語(神話における「名称」)が事物の一種だとすると、アダムないし話す主体の役割は、ただ単にモノとしての名前とモノとを何らかの根拠によって対応させることにすぎなくなる。
 ソシュールが提起した記号概念は、伝統的・通俗的言語観を覆してしまった。言語記号はほかの事物と並ぶ別の事物ではあり得ない。言語はモノではない。それはむしろ、万物を差異化しつつそれとして生起せしめる能力(ランガージュ)のアスペクトにほかならない。換言すれば、言語記号は人間のカテゴリー化(categorization)の能力が現勢化するために欠かせない手段である。あるいは、言語はカテゴリー化の媒介要因なのだ。こうして、〈記号〉は何かを指示するモノであるのをさしおいて、原理的に(in principle)何かを意味するものとなったのである。
 ソシュールによれば、記号は一元的なモノではなく、記号表現(significant)と記号内容(signifié)の二元的構造体である。記号はいつでもいち早く二元性(dualité)の現象である。これにはただちに存在論の更新がしたがっていた。常識的実在論から内部存在論への転換である。記号がそれとは別の(記号外部の)対象を指示するものではない限りにおいて、いまや存在論的な意味であらゆるものは〈記号〉である。換言すれば、記号にとって「外部」なるものはない。――ここにソシュールの洞察の大きな意義がある(もちろんこれをどのように解釈すべきかという問いが残っている)。
 ところで、記号の二元性をソシュールはどのように展開しただろうか。そこに私たちは、彼の思索の危険きわまる足取りを認めざるを得ない。
 記号表現が記号の裏面をなすとすると、それは聴取された限りでの言語音、すなわち「聴覚像」(image acoustique)であり、「心理学的なもの」としてつまりは心的なものだと知られる。また記号の表面である記号内容は「概念」(concept)としてやはり何らか心的な存在者であると思える。こうして、ソシュール記号学が観念論に依拠するらしい気配は隠しようもない。
 しかし私たちが生きられた言語にどこまでも密着するとき、この種の観念論的言語学に違和感を覚えないだろうか。そもそもソシュール言語学のメンタリズム的側面はデカルト的二元論から派生したのではないだろうか。そのような進路を踏み惑うのではなく、ソシュールは自分で新たに拓いた内部存在論にどこまでも忠実であるべきではなかったか。
 もちろん「内部」や「外部」という言い方はさしあたり隠喩に過ぎない。しかしそれらは避けがたい「必然的隠喩」[スネル74]であろう。このことが事柄を困難にしている。そのうえ言語記号いや一般に記号は、いつでも何か質料的な担い手に乗ることによってしか存在者として実現されない。例えばそれは音響的出来事(空気=質料の振動)であったり、インクで描かれた図形(少量の顔料=質料)だったりする。
 ソシュールが遂行した記号への「カテゴリー論的アプローチ」は、〈記号〉のこの存在論的制約を無力化する方向でなされた。明らかにソシュール記号学は、全体として「観念論」あるいはメンタリズムの色彩をおびている。質料のもつ存在論的意義について、彼以降現在に至るまで、多くの言語学者記号論者は頓着することがない。この先入主はソシュールに由来している。だが私たちは、内部存在論は質料の存在論的制約と両立するはずだと見なしている。 
 この制約は、ただ単に記号の物質的基盤を意味するものではない。なるほど、音声はある意味で空気の振動であり、文字はインクで記された図形である。しかし、〈言語〉ないし〈記号〉にとって質料性が条件だというのは、それらが必ず一定の物質的所産をもたらす身体の動きや働きであることを意味する。存在論の別のレベルからこれを言い換えれば、言語の本態は〈出来事〉ないし〈過程〉であり、記号とは〈記号過程〉(パース)なのである。このようにして、人間的事象としてしか言語や記号がありえないとすれば、言語の本態は〈身体の働き〉にほかならないことになる。メルロ=ポンティが解明したこの眼目を、ソシュール記号学は見失ったのではなかろうか。

[スネル 74] B. スネル著、新井靖一訳:精神の発見:ギリシア人におけるヨーロッパ的思考の発生に関する研究、創文社(1974).

一般言語学講義

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ソシュール小事典

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精神の発見―ギリシア人におけるヨーロッパ的思考の発生に関する研

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