実在性のカテゴリーについて――記号主義から考える(6)

namdoog2007-08-07

 実在性に関する現象学者の議論として、サルトル(J.-P. Sartre)の想像力についての考察は示唆するところが多い。同時に、この議論からは抽象的/具象的という対比概念についても教えられる点が多い。叙述の順序を変えることになるが、バシュラールの論点を点検するためにも、まずサルトルの議論のあらましを踏まえておきたい。(なお、以下の叙述は、以前執筆した論文を部分的に利用していることをお断りしたい。)
 サルトルは、<想像>という意識の状態は知覚という実在性の意識とその無化作用においては共通し、ただ作用の方向性でそれと相違するに過ぎない、と論じる。私は目前に油性のマッス(具体的には一枚の油絵のこと)を視ている。この事態はこう言いあらわすことができる――しかじかという特定の観点から世界が無化されることによって、到来しつつ同時に背後にすべり退いた世界の地の上に、そのマッスが<図>として現出したのである、と。(サルトルはここでゲシュタルト心理学の用語法を用いている。)ところでこの油性の色面がシャルル八世の肖像として眺められるためには、色彩のマッスという<実在>(le réel)が、すでに物故したシャルル八世という<非実在>(l'irréel)へと超出されなくてはならない。一般的に言えば、

 イマージュを措定することは、実在の全体の埓外に一つの対象を構成すること、したがって実在するものに距離をとり、それをとびこえること、一語にして言えば、それを否定することにほかならない(『想像的なもの』、p.233)。

 想像とは知覚の逆である。想像とは、それもまた地−図構造の構成であるが、しかしこの構成は知覚の場合とさかさになっている。知覚では空虚の裡に狙われ(=無化)、血肉を具えたものとして与えられる対象(実在、たとえば油性のマツス)が、想像では、空虚裡に──非実在として与えられ、その血肉を(つまり、シャルル八世として)狙われるのだ。 
 こうした見解は、知覚にはつねに想像がいわば生霊のようにつきまとっているという卑近な事実を、よく説明する利点を持つように思える。われわれは実際、視はじめた途端に想像してしまうことがしょっちゅうだ。
 この点でバシュラール(G. Bachlard)の〈客観的認識の精神分析〉ほど豊かな例証と教示にとんだ研究はない。われわれの素朴な、初次的な経験[理論的説明や分析とは無縁の日常的経験]は、彼に言わせれば、科学的認識にとってはつねに初次的障害にすぎない。
 たとえば、シリンダーの挺子を押す掌に、今や空気はぎっしり内容のつまった物体としての反応をきびきびと送り返してくるではないか。それはまるでスポンジか羊毛玉のようなものとして知覚されるのである。
 この隠喩が初次的経験の水準にとどまっているかぎり問題はないけれども、それが説明の体裁を装うや、ただちに問題が生してこざるを得ない。空気=スポンジ説をとったある学者は、空気が水に融解する観察をスポンジヘ水が吸収されそれが浸潤することとして説明した。それでは、なぜ空気のとけこんだ水は圧を加えても収縮しないのか。もしもそれが水を含んだスポンジなら当然縮んでもよいであろうに。
 これに対する学者の反論は次のとおりであった。容器に水を張りそこヘスポンジを沈め、水へ圧力を加えてみてもスポンジは決して収縮しない。スポンジのあらゆる部分には水が含まれていて、這入り込もうとする水を寄せつけないからである!

 それゆえ、もし空気がスポンジのように水に浸潤され、水が空気の各部分にある空所に這入ってそれを満たしうるならば、空気はもう可収縮性を持たないのである。(Bachelard,『科学的精神の形成』, pp.74-75)。

 これはまことに<巧妙な謬見>というべきだろう。そのもとはといえば、掌に感知される空気の弾性であったvしかしこの知覚はすぐにスポンジのイメージヘ混ぜあわされてしまったのである。バシュラールはいう。科学的精神は、初次的経験の説明への衝動に対抗しつつ、つねに自らを革新することによって自らを形成するのでなければならない(『科学的精神の形成』, p.23)。誤謬への病いから精神を癒すために、彼のいう「客観的認識の精神分析」が必要な所以である。
 知覚と想像の相補性について、サルトルは次のように述べている。

 実在を世界としてどう把握するにせよ、この把握はそれだけで非実在的対象の産出により仕上げられる傾きにある。というのも、そうした把握は、つねにある意味で世界の自由な無化であり、かつこの無化はつねに特定の観点からなされるからである。こうして、もしも意識が自由であるなら、その自由のノエマ的相関者は、各瞬間に個々の観点からイマージュによって否定される可能性を己れの中にたずさえた世界でなければならない(ibid.,p.235)。

 すなわち、あるものをあるものとして見ることは、特定の状況に住みこんだ意識の自由を条件としているのである。神ならぬ人間は世界を、一挙に、まるごと、見るわけにはゆかない。かえって、世界全部の知覚とは、あたかも一片の雲ものせない蒼穹を凝視するとき、そこに何一つ、空すらも見えてはこないように、何ものをも見ないということにすぎないだろう。だとすると、何かをそれとして見ることは、すでに半ば何かをそれ以上のものとして夢みる権利を保留するということなのである。
 そればかりではない。サルトルは同時に、古くから想像にまつわる難問の一つを、やすやすと解いてしまったようにみえる。すなわち実在性の意識(知覚)と想像の区別の根拠という問題である。
 たとえばヒューム(D. Hume)のような人にとって、印象と観念の間には本性の違いはなく、たんに印象からその力と生気が失せたものが観念になるのだった。イマージュは観念の部類である。それゆえ、想像上の観念も、現実の知覚に由来する観念も、どちらも同じ積極性を呈する点で差別がないことになる。こうして、想像とはいわば〈対象なき知覚〉であり、知覚とは〈真なる想像〉であって、両者の区別は専ら外的制約によってその都度つけるほかのない、意識にとっては偶然的なものにずぎないことになる。両者の本性的区別は無に帰すのだ。
 ところがサルトルに言わせれば、それぞれ同じ意識の、しかしまったく別個な様態としてきちんと区別されうるのである。その仔細は『想像的なもの』の『第一章:確実なこと、第一部:記述」で集中的に説かれている。
 以上でサルトル非実在性の意識=想像力に関する基本的見地を見たことになる。サルトルの設問の至当さと彼の考究の善意とを疑うことはできない。歴史的に見て、想像力はややもすれば認識にとって劣等な心的能力として蔑まれることが多かった。プラトンから遥かに遅れて近世に例をとれば、デカルトパスカルスピノザなどにとって、想像力は身体と結合した、仮象を生む心的機能にすぎなかったのである。想像力によって人はほとんどつねに誤謬へと運ばれる、と考えられたのだ。サルトルはこうした蔑視の歴史に抗っている。想像的なものの偶有説を排除し、むしろそれの意識にとって抜き差しならぬ可能性であることを──同時に、それはわれわれが蒙る運命でもある──彼の流儀で鮮かに示したサルトルの姿勢は、十分な評価に値すると言わねばならない。
 しかしはたして彼は問を正しく解いたのだろうか。残された問題は必ずしも少なくはないと私たちは考える。
 たとえばサルトルは、イマージュが事物に並ぶもう一つの事物である、という考え方を正当にも斥けて、想像的なものの非実在性を強調している。この点は、サルトルと立場や方法こそ違うけれども、日常言語派の哲学者ライル(G. Ryle)の主張ときわめて似かよっている。彼もまた想像的なもの(「イメージ(image)」、「心像(imagery)」などと呼ばれる)が現実を造っている種々の存在者と並ぶ、しかしそれらとは本性の違うもう一つのものであり、人間精神はそれらの登場するいわば舞台である、という考え方を厳に斥けるのだ。彼のテーゼは、要するに「想像するということは生じるけれども、イメージが見えるということはない」というものである(『心の概念』: ch.VIII)。
 それにしても、想像的意識の指向性によって狙われる、この想像的なものの非実在性とは、全体何だろうか。もっとよく彼の考え方を見ることにしよう。 (つづく)