実在性のカテゴリーについて――記号主義から考える(7)

namdoog2007-08-25

 「想像的なものの非実在性」をサルトルがどのように把握したかを解釈するために、彼による意識の「静態学的」分類をとりあげよう。それによれば、対象が意識に与えられる様式によって、意識は三つの部類に分れるという。すなわち〈知覚〉(percevoir)、〈概念知〉(concevoire)もしくは〈純粋知〉(savoir pure)、最後に<想像>(imaginer)である。
 それぞれの特徴を簡略に述べることにしたい。サルトルは分類するために三つの基準を設定している。すなわち、1)意識への対象の与えられ方、2)対象の存在措定可能性、3)作用の様態――これらである。
 まず1)であるが、対象は知覚と概念知とではその与えられ方が対照的であるという。すなわち、知覚に対して出現する対象は汲みつくせない無際限な特性をそなえているが、概念知の場合には特性はあらかじめ限定されている。
 さて問題の想像に関しては、無際限の特性がない点では概念知に同じであるが、概念知そのままとは言えない点もある。知覚は人が経験的対象を観察するときの認識の様態であって、対象について学習することが可能な根拠はこうした様態に存する。
 しかし概念知には、対象の字義的な「観察」の可能性はない。(プラトンの想起説はこの論点を認識の全体に及ぼしたものだと言いうるかもしれない。)しかし想像の場合には、例えば脳裏でパルテノン神殿を想像しつつその柱の数を数える擬態を演じうるのである。ちなみに、こうした態度をサルトルは「準観察」(quasi-observation)と名づけている(『想像的なもの』、p. 21)。
 2)に関して。知覚が対象を「実在するもの」として開示するのに対して、概念知は知覚とは違う意味での「実在性」を容認している。(かつての普遍論争を参照。)さて想像の場合には、対象が実在しないことがこの種の意識様態の構造要因である。
 最後の3)。知覚は外界の対象に触発されるかぎりにおいてある種の受動性を帯びている。ところが、概念知は対象の「実在性」に積極的にかかわる点にその著しい特色がある。概念的対象は知性が構成するのかもしれないし、本質として実在する対象を「直観」するのかもしれない。この点で想像はむしろ概念知に類似している。
 以上を要約すると、想像が知覚とほとんど対蹠的な素姓のものであり、むしろそれが概念知に類似するという事実である。
 サルトルの想像力論における真の問題は、想像という意識様態の特色として彼が指摘した〈準観察〉にあるとおもえる。彼があげている例をここでもとりあげてみよう。
 彼はアランの本から例を借りて、パンテオンのイマージュについて述べている。なるほど私はそのイマージュをまざまざと視る。はじめ私の心の眼はその柱身に向けられる。つぎに基壇に、そのつぎに破風に、つぎに……と、私はまるで観察でもするように、パンテオンのそこかしこを心の眼で追う。しかしこれが本物の観察ではないことは明らかだ。現実のパンテオンの柱は数えることができる。ところがパンテオーンのイマージュの柱は一本一本と指折り数えることは決してできないのだ。イマージュの柱の数は、一挙に始めから十本と決まっているか、そうでなければ新規まき直しに、しかしそうした限りで一挙に始めから十四本であるか、いずれにせよ、その柱を数えるのは到底不可能なのである。これはとりもなおさず、私がパンテオン=イマージュを見てはいないことを意味している(ibid.,p.117)。
 そこでサルトルは、<想像的なもの>(l'imaginaire)に認められる雑種の様相──その切実かつ如実でありながら、欺瞞的可能性──を考慮して、<準観察>という観念で想像を特色づけたのである。
 この「準観察」という語をどのように捉え返すか、これが問題の一切の岐路である。ここで思いおこされるのは、イマージュと一ロに言っても実はそれに二別があることである。一つはたんに再生的性格のみを持つもので、記憶表象はこれに数えられる。二つは、論理的可能性のみによって賦活され創造的性格を持つイマージュである。たとえば、体躯は鹿に似て、尾は牛に、蹄は馬に似、背中の毛が五彩の色を放つ、角のある獣、つまり麒麟(キリン)の心像はこれに入る。
 前者をさらにニつに分けることができよう。一つは、想起されしかも再認される表象であり(例、誰と知られる知人の顔のイマージュ)、もう一つは、再認を伴わずに想起される表象(例、誰とはわからないが見知った顔のイマージュ)である。いずれにせよ、この種のイマージュは、必ずしも同一指定を要さない点で知覚に似ている。<それが何かわからぬもの>を視ることは可能なのである。
 これと同じで、何かわからぬものを思い浮かべることができる。これにひきかえ、後者の場合、麒麟とは何かを知らずに、そのイマージュを想い浮かべることはできない。いや、そんなことはない、単に再生的性格をもち、しかも麒麟といった想像上の動物のイマージュは、事実、存在する。例えば、麒麟とは何かを知らぬ五歳の幼児が、そうした表象を抱くことが十分考えられる、と反論されるかもしれない。しかし、そうした場合、幼児が想い浮かべるのは、麒麟のイマージュではなく、かつて見た麒麟の(たとえば)絵のイマージュにすぎないだろう。
 このことは、創造的性格を持つイマージュの切実な可視性を疑わせる事実である。この種のイマージュは「視える」のではなくて「視えるように思われる」のであり、とどのつまり概念とひとし並みに、「思考される」にすぎないのではないだろうか。
 それではひるがえって、前者の部類のイマージュについてはどうだろうか。そのものの再認を伴う林檎の表象を例に吟味してみよう。その林檎はサルトルの言うように〈非実在〉である。それは、林檎=イマージュによっては人は空腹を満たしえないこと、物理的時空とそれとが何ら有効な関係を結んでいないこと、などの謂である。その証拠に、林檎を思い浮べつつ、部屋の照明を消してみよ。それでもなおその林檎は「見え」ている。反対に部屋の照明を一斉にともしてみよ。だからといって、いっそう鮮明に林檎が「見える」ということにもならないのだ。
 しかし全体、このような非実在について、「見る」という言葉遣いをするのは正しくないのではなかろうか。視覚という概念はたんに私的な経験を言うのではなく、感官や時空や事物にかんするさまざまな条件と結合している。たとえば両眼を喪った人について、「彼は見る」とはまず言えない。とすると、林檎=イマージュを「視る」というのも、実は「見るように思う」のであり、結局は「林檎を思考する」ことにほかならないのではないか。
 ちなみにライルの考えもこれとそれほど異なるものではない。〈思い描く〉(picturing)という意味での想像は、むしろ認知や理解の要素に対応するのであって、感覚には関係がないのだ。たとえば私が誰かの顔を思い描く場合、たしかに、それが誰かが私にはわからないことがありうるが、それがどのような顔であるかは私に知られているのでなければならない。「私の精神の眼で顔を見るとは、その顔の知識が私にかなえさせてくれることの一つである」とライルは言っている(『心の概念』、p.266)。
 このようにして、サルトル流の考えから推してゆくと、かえってイマージュの抜き差しならぬ可視性が否定されてゆき、想像と概念知の区別がうまくつかなくなるのだ。一体イマージュの非実在性とは何なのだろうか。イマージュは、たしかにサルトルが明言するように、もの(chose)ではありえない。存在しないものの想像の場合、このことは明らかである。たとえばわれわれは麒麟を思い描く。もちろん、麒麟は現実の世界に生息していない。
 しかし、想像の対象になるのが何か独特の存在性格をそなえたイマージュなるものである、と言うのも奇妙である。仮に私が麒麟を想像してそれをひどく怖れた、としよう。私の恐怖の原因は何だろうか。もちろん実在する麒麟ではない。しかしまたそれは私が頭に思い浮べた麒麟=イマージュでもない。というのも、私の怖れるのは、まさしく麒麟であるからだ。
 サルトルはイマージュとは〈関係〉にほかならぬ、と言う。しかしあらゆる意味で存在しないものと意識とが、指向的に関係するということは考えにくいことである。関係の項は何ほどかリアルでなくてはならないからだ。
 われわれの見るところ、この〈非実在〉とはサルトルにおいて〈意味〉(signification)にほかならない。現実性の意識においても、想像においても、実在は非実在へ超出される点では分け隔てがないのである。
 しかしさらに、この意味について、存在論的問題が頭をもたげざるを得ないだろう。そしてもしも意味が何ほどかリアルなものだとすれば、サルトルの努力は水泡に帰さないだろうか。というのも、イマージュをものと解する〈内在の錯覚〉を非難したサルトルが、意識内にものを持ち込むことになるからである(H.Isiguro, ‘Imagination,' in Warnock, M.(ed.), Sartre, Garden City: Doubleday.1971,115f.の指摘である)。意味とはそういうものではない、と言うなら、それはどんなものなのか、と問いたくなるのも無理からぬ話だろう。結局サルトルは、想像が知覚と異なることを正しく指摘しているとはいえ、それでは想像が概念知と異なるいかなる固有性を持つかについては、説得的な議論を用意していないのだ。
 筆者の考えでは、サルトルの議論から、読者は、<知覚>と<概念知>とを二項対立的に分断する彼のような考えには欠陥がある、という教訓を引き出すべきなのである。(途中をとばした言い方になるが)具体性/抽象性という対立概念が、知覚と概念知の対立に根拠を置いているかぎり、この種の対立概念をあまり本気にとらないほうがいい。概念知が抽象的であるという言い方は単なる「語り口」にすぎない。概念知であっても(たとえば何か数学理論)どこまでも具体的に展開できるはずではないだろうか。 (つづく)