実在性のカテゴリーについて――記号主義から考える(8)

namdoog2007-09-07

 これまでの議論を整理してみよう。まず、記号主義がある種の構成主義であることは、明らかなことである。ブラックバーンの記述からスタートしながら、これを手直しすることで、私たちは、<実在性>のカテゴリーを規定するひとつの要件に到達した。もう一度その規定を引用したい。


コト/モノが存在することは、われわれから独立のことがらではない。すなわち、これらのコト/モノは間身体的な工作物(artifact)であって、われわれの言語ないし概念図式の産物である」という条件である。(ここでは、この規定中の<われわれ>その他の問題をかもす概念についての注意は繰り返さない。)

 簡単に言うと、記号主義は存在者の存在性格をその記号性に求める形而上学見地にほかならない。他方で私たちは、<実在性>なるカテゴリーを理解する際、あるコト/モノが実在するとは、そのコト/モノの存在様態(特性ないし属性あるいは関係性)が無際限であること、という理解を同時にもっているようにおもえる。
 ふたたび前回の記述から引用しておこう。

ある事物(モノやコト)が実在する、という私たちの了解には、その事物がいかにあるか(存在様態あるいはSo-sein)の無限定性という意味が含まれているように思える。具体的なこの椅子の見え方は一通りではない。すこし視点を移動すればたちまち前とは異なる椅子の姿が出現する。この場合は、知覚的事物の存在様態が無際限であると言い表すことができるだろう。事物が実在するということの意味には、明らかにこの無際限性が含まれている。

 しばしば誤解される点なのだが、この存在様態の無際限性は、問題のコト/モノが具体的であろうが、抽象的であろうが変わりがない。つまりは、具体的/抽象的という、存在者の描写は単なる便利な言い回し以上ではないと見なすべきだろう。この論点を明確に打ち出した議論として、バシュラールの数学に関する洞察を紹介したい。
 バシュラールは、幾何学を論じるにあたってまず「実在性を信じるとはどういうことか」という問いを立てている。そして実際、私たちと同様、彼もまた「存在するものがその直接的所与以上のものであるという確信」に実在性の「第一次的な形而上学的機能」を認めている。(『新しい科学的精神』、ちくま学芸文庫、p.42.)ところで、彼が言うには、この機能が最高の微妙さで働くのは――通念には反して――数学の領域においてなのである。
 例えば、ヒルベルト流の唯名論である。ヒルベルトは数学を絶対的な形式だと見なしている。それゆえ彼の数学観は、この意味で<形式主義>に分類されている。幾何学のすべての美しい対象、美しい図形、そうしたものが単なる意味のないデザインとしての文字ないし「記号」に還元されてしまう。次に絶対的な規約主義がやってくる。すべてのリアルな関係は、呪文のアブラカダブラのような記号の羅列でしかないというのだ。こうして数学は無意味な記号のシステムに要約され、記号化され、純粋化されることになる。結局のところ、こうして、数学からあらゆる実在性が奪われたように見える。
 ところが――バシュラールは議論を続ける――じつはこの地点から初めて数学者の努力が開始されるのだ、と。つまり形式主義は数学にとっては単に便宜的な方法にすぎない。形式体系は数学そのものではないのである。数学とは創造的な、実在を目指す努力である。とつぜん一転してすべてが明瞭になり、意味のない文字の羅列は「語」になる。それは理性に語りかけ(もはやそれは単なるデザインではない!)実在の領域に呼び出すべきモノやコトを見つける…。(同書、p.43.)
 バシュラールはここで突如生成した「意味論的価値」が数学の全体構造に由来する、という論点を指摘している。だが筆者の見るところ、彼の議論は十分な展開を果たしてはいない。ここでは少なくとも、最も抽象的とされている数学でさえじつは<実在性>を免れない、そのかぎりで具体的であるという彼の洞察を確認するだけにとどめたい。同時に、形式主義を救おうとする彼のやり方に十分な注意を払う必要があるだろう。
 グッドマンは実在性を素朴に考える人たちに警告を発していた。さわりの部分の引用を繰り返そう。

ときたま少々せっかちに「目の前にあるものが見えませんか」と私に訊ねる人がいる。まあ、見えるとも言えるし見えないとも言える。私には目の前の人々、椅子、書類、それに本が見えるし、また目の前にある色、形、パターンも見える。しかし私には、これもまた目の前にある分子、電子、赤外線が見えるだろうか。

 同じように、バシュラールも<光子>や<電子>といった眼には見えない理論的存在者について、『新しい科学的精神』でこう語っている。

一般的に言って、光子にたいしてであれ、電子あるいは原子にたいしてであれ、実在性についてよりもむしろ実在化について語るべきであることを、はっきり認識しなくてはならない。(…)実験による実在化は、まず何よりも、われわれの知的な理解の仕方に依存する。最初の数歩が踏み出されるのは、理論に向かってなのである。(同書、p.119.)

 モノ/コトが与えられるがままの実在性でもって私たちに訴えかけてくるのではない。換言すれば、実在性は対象の客観的属性ではない。むしろ対象は認識者と世界との際会(日常的知覚にせよ、理論的説明にせよ)のただなかでこそ、認識者に対して<実在論的アピール>(realistic appeal)(マーゲノウ;H.Margenau,ドイツ出身のアメリカの物理学者)を発揮するのだ。一般に、実在論的アピールは、何らかの記号学的実践(この場合には物理学理論)に依存しているのである。(同書、pp.119-200.) 
 いま私たちが<実在性>のカテゴリーを問題として採りあげ、それにまつわる誤解を解こうとしている、その動機を読者には正しく受けとめて欲しい。
 記号主義とは、あらゆる存在者の基礎的存在性格をその記号性に求める形而上学である。たとえばパースは、人間を含めて森羅万象が記号過程(semiosis)にほかならない、とした。あるいはグッドマンは、私たちはヴァージョンを制作することによって世界を制作する、と主張した(「世界制作論」)。(ちなみに、ヴァージョンとは科学理論・藝術作品・工業製品・日常的経験・知覚その他あらゆる人間が営む記号的実践とその産物がおりなすシステムである。)あるいはかつてソシュールがラングの体系が世界に分節を付与することによってモノ/コトが成立する、と述べたことを思い出してもいい。
 ところで世間には、記号は擬似的実在だという誤解がまかり通っている。こうした誤りが生じる最大の誘因は、記号の古典的定義に求められなくてはならない。すなわち、古来、人々は記号を「他のあるものを代表するあるもの」(something which stands for something else)と捉えてきた。これが厳密な意味での「定義」にはなり得ていない点は見逃してもかまわないし、この定義が端にも棒にもかからないノンセンスだというつもりもない。ただ指摘しておきたいのは、この定義には、記号が実在の代替物であるという含みがあるという点である。
 この含みから、多くの人は記号は本物と異なるものである、つまりニセモノ(実在しないもの、非実在)だという理解へ落ち込んでしまう。記号学の専門家たちの間にも、この種の誤解がまかり通っている。(というより、彼らの記号学的理論が不徹底だというほうがいいかもしれない。)
 一例をあげよう。ポストモダニストのボードリアール(J. Baudrillard)は、記号表象を実在性の欠如と解している。この種の記号を彼は<シミュラクラ>(simulacra)換言すれば<オリジナルのないコピー>と呼ぶ。彼によれば、記号はもともと実在に対応するものであるはずなのだが、高度産業社会においては、実在をむしろ隠蔽するものとしていわば一人歩きするものとなる。その挙句に、何の実在とも対応しない空虚な記号になってしまう、というのだ。バルト(R. Bartes)にも同根の発想がある。彼らの見解は広範囲に影響を与えた。それだからこそ、いまその理論的不徹底を指摘することは、あながち意義がないわけではないだろう。
 文化批判として彼の理論が一定の有効性を持つことは認める。しかし理論的観点から厳密に検討するとき、この種の記号学的理論の基礎が腐食している懸念を禁じえない。
 ちなみに、<ヴァーチャル>という観念にもよく似た問題が発見できる。リアル/ヴァーチャルという二項対立的概念区分は克服されなくてはならない。ギブソニアン心理学者のリード(Edward S. Reed)が、メディアに媒介されない直接経験の重要性を強調する本を――ヴァーチャルという観念が一般化する以前に――に書いている(Necessity of Experience , 1996)(これを「仮想現実論」の先駆的業績と見なすこともできる)。リードの議論にはもちろん一定の有効性があるが、記号主義から厳密にその議論を検討するとき、彼の理論の記号学的基礎がきわめて脆弱であることは否めない。(この点についてはいずれ活字メディアで明らかにする予定がある。)
 とはいえ、ヴァージョン(記号システム)なら何でも実在性に関して甲乙がつけられない、などという相対主義を主張しているのではない。正しい記号システムだけが実在的なのである。では、記号システムの正しさはどのような基準で判定できるのか。この問いに対しては機会をあらためて論じたい。 (ひとまず了)