という観念の生成について (1)

namdoog2007-09-30

 記号学の歴史は人類の記憶とともに古い。しかし、研究の実情を見ると、<記号>という観念を基軸とするこの種の知的探究が、どのように始まり、どのように推移してきたのか、いまだにその全貌があきらかにされているとは言いがたい。
 ここに記そうとするのは、文献学的方法の面でも資料の充実という点でも、「記号学の歴史研究」の名に値するものではまったくない。これは単に、「記号学の歴史」が記号学そのものに資するかぎりで、そのきわめて粗い骨子をメモにまとめたものにすぎない。その意味でこれはいわば「記号学史事始め」の域に足を踏み入れる前にそのいくつかの前提を明らかにしようという、かなり限られた試みである。
 筆者の考えるところ、<記号学>は少なくとも三つの課題を背負っている。すなわち、
 1)<記号>という概念の分析をおこなうこと、換言すれば、記号構造の解明をおこなうこと。記号学のこの部面をとくに「記号の存在論」と呼ぶこともできるだろう。
 2)<記号現象>の分析を遂行すること。これまでさまざまな記号学の本が書かれてきた。例えば、それは写真の記号学であったり、テレビの記号学であったりした。近年では生命記号論について研究者が発言することも多くなっている。
 3)<記号>概念を基軸とする思想体系(哲学)を構想すること。この課題は、明らかに1)の記号の存在論を基礎とするものであるはずだろう。すなわち、世界に帰属する存在者の存在様態を基本的・原理的に<記号>と捉える見地から哲学をやり直す企てである。筆者はこうした見地を「記号主義(semioticism)」と呼んでいる。
 思想史上にその具現化の例を求めるとすれば、まっさきにパース(C. S. Peirce)の名を挙げなくてはならない。加えて20世紀におけるグッドマン(N. Goodman)の哲学的著作はまぎれもなく――その「世界制作論」にかんがみて――記号主義を体現したものであった。
(だが筆者には、自覚的に記号主義を標榜した思想家なり哲学者とは別に、いわば<自覚せざる記号主義者>がいたようにおもえる。なぜなら、<記号>という観念はそれほどまでに基礎的であるから、たとえあからさまにこの用語に言及していないとしても、その哲学者が事実上(virtually)記号主義を踏まえていることは十分にありえる話だからである。)
 さて、記号学史事始めに手を染めようとするとき、当然のことながらある問いが探究の目の前にたちはだかるのが分かる。従来この問いはそれほど尊重されてこなかったようにおもえる。いやむしろ忘れられ軽んじられてきたのではないだろうか。このなおざりな態度が記号学の構想そのものによくない効果をもたらさないはずはない。
 その問いとは、これである――なぜ人間は<記号>という観念をもつようになったのか。換言すれば、これは<記号>概念の生成の問い (the problem of genesis of a notion ‘symbol’)にほかならない。ここにはある種の再帰性がともなっている。なぜなら、問い立てとは記号の営みであるのに、記号について問い立てをすることは、切り詰めて言うなら、記号が記号について反芻していることに他ならないからである。この論点は今後も注視しつつかたく保持してゆかなければならない。
 筆者には、<記号>の観念は、世界に生きる人間(man-in-the-world)が抱かざるを得ない、世界と人間に関する問いそのものに源泉がある、とおもえる。すなわち、私たちは誰でも――哲学者であろうと市井の人であろうと――なぜ世界はこのようにあるのだろうか、なぜ出来事はこのように生じたのか、なぜ自分は生きているのか、という問いを胸のうちに――生涯を通じて消えることのないおき火のように――かかえているからである。 
 この問いにたいして、古来、人間はその解を無意識にせよ求め続けてきた。ここで歴史学や人類学などの学問が教えるところに従えば、解を求める方向性には実際に、少なくとも以下のものを数えることができるようにおもわれる。
1)へレニズムの伝統
2)ヘブライズムの伝統
3)実用的文脈における<しるし>の探究
4)3)を知識の体系として整備する方向性。
 ただし、こうした整理は必要であっても十分ではない。日本人の多数がヘレニズムの伝統を生きているわけではない。しかし私たちとても<記号>という観念との関連で、ヘレニズムの伝統と部分的同型をなす伝統を生きているのは確かなことである。
 それぞれについて説明をしてゆきたい。  (つづく)