という観念の生成について (2)

namdoog2007-10-05

ヘブライズムの伝統
 問題の考察の手がかりをなぜヘブライズムの伝統に求めるのだろうか。この問いにかんしては、第一に、そうする積極的な理由を簡単に説明しておけば十分だろう。
 そして第二に、じつはこの考察(知見)の範囲がじつは単にヘブライズムの伝統には限られない点を付言しておかなくてはならない。すなわち、<記号>の観念はどのような信仰の形態にもかかわりがあるのであって、そのかぎりで、主要な文明に認められる宗教あるいは「普遍宗教」だけではなく、文字をもたない人々がいとなむ「宗教」と称しうるあらゆる記号的実践行動にも、<記号>観念が内包されていることを見誤るべきではない。この第二の点については、末尾で述べる予定である。
 なぜわれわれは、ヘブライズムの伝統に<記号>観念が生成するひとつの根拠を見出すのだろうか。聖書学の研究が、この問題をかなりな程度すでに明らかにしているからである。
 もちろんここで聖書学に立ち入るつもりはない。そのためには専門研究や論文を参照すべきだが、記号学的考察にとって最小限必要な知識は、定評ある神学事典あるいは聖書事典(例えば、レオン・デュフール(代表編者)『聖書思想事典』三省堂、1981、『旧約新約聖書大事典』教文館、1989;あるいはコンパクトな、『旧新約聖書神学事典』新教出版社、1961、など。余計なことながら、比較的新しい『岩波キリスト教辞典』は、記述が簡単すぎる上に項目があまりに散漫で役に立たない)から得ることができる。
 『旧新約聖書』のテキストにおいて、「記号」に相当する一般名辞は<しるし>(ヘブライ語H: 'ôt, ギリシア語G:sēmeion, 英語E: sign)である。この語がどのような意義で使用されているかを文献学的・解釈学的に解き明かすことを通じて、<記号>という観念のいわば氏素性が明らかになるだろう。
 1) ヘブライズムにおける大文字の<神>は創造主であって、天地の間に起こるすべての現象や出来事は神の業にほかならない。言い換えるなら、この世界がこのようにあるということ自体が実際には神の<奇跡>なのである。テキストから少し引用を試みよう。まず聖書は次の言葉からはじまっている。「初めに、神が天と地を創造した」(創世記 1:1)すなわち、神は創造の主なのである。
 神が全知全能であることは、次の引用から知ることができる。例えば、「主は望むところをことごとく行なわれる。天で、地で、海で、またすべての淵で。」(詩篇 135:7)あるいは、「神は大いなる事をなして測り知れず、その奇しいみわざは数え切れない。」(ヨブ記 5:9)
 しかし人は自分がこの意味で<世界に帰属する人間>(man-in-the-world)であることを日常生活をおくるさなかで忘れ果てている。人間の側のこの忘却を諌め、人間が神の被造物に過ぎないことを、神はときとして異常な手段によって告げ知らせる。この手段もまた<奇跡>と呼ばれる。実際、異教徒はふつうこの意味で「奇跡」という語を理解している。二三の引用でこれを確かめておこう
 「その日、彼は次のように言ってひとつのしるしを与えた。『これが、主の告げられたしるしである。見よ。祭壇は裂け、その上の灰はこぼれ出る。』」(列王記第一 13:3)あるいは、「わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行なおう。」(出エジプト記 7:3)
 『出エジプト記』は壮大で雄渾な叙事詩ともいえる物語であるが、そこには数々の神による<奇跡=しるし>が描かれている。この長い物語を詳しく語ることはできない。
 <奇跡>をイメージ(映像)として知るには、セシル・B・デビルにより映画化された『十戒』(1956)はこのうえなく有益な作品である。業界用語でいえば、この作品は「スペクタクル巨編」といえるだろう。それもそのはず、創造神の業と摂理こそは、比較を絶した、真の意味でのスペクタクルだからである。換言すれば、この現実世界を神のしつらえたスペクタクルと見なす点に一神教信仰(イスラム教を含めて)の要がある。
 この映画でもその場面が描かれている。まず、エジプトのファラオから砂漠へ放逐されたモーゼが羊飼いの族長の娘を妻とすることになる。
 ある日、鉱山から逃げてきたヨシュア(モーゼの後継者)がモーゼと再会したその折に、シナイ山の頂が異様な光を放っていた。モーゼがシナイ山に登ると、山頂に一本の木があり、光はそこから発していた。その場所で彼は「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という声を聞く。それこそが神の声なのだった。山を降りてきたモーゼの神は白髪になっていた。(神を見た者は一瞬にして白髪になるという)。
 エジプトの支配を逃れてユダヤの民はモーゼの導きでイスラエルの約束された地を目指すことになる。ファラオの軍隊がイスラエルの民を追撃しようと迫ってくる。彼らは紅海のほとりにいた。モーゼが「恐れるな、神の救いを見よ」と両手を天に伸ばした。すると天から光が集まってファラオを軍隊を焼く火柱となった。さらにモーゼが紅海に向って手を差し伸べる。すると、紅海の水が左右に割れ、道を作ったのである。群衆は海にできた道をなだれをうって渡り始める…。
 <奇跡=しるし>にはほかにも意義を有していた。そのすべてをここで尽くすことはできない。『聖書』の記述にそくしながら、二三の意義を明らかにしよう。
 2) 第一に、空にかかる虹は神とイスラエルの民との契約の<しるし>である。「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。」(創世記 9:13。 念のため英訳を示そう。"I set My rainbow in the cloud, and it shall be for the sign of the covenant between Me and the earth.)〔前回の記事のイメージ参照〕
 この事例は、自然現象が<しるし>であるという意義をになっている。類例としては、「太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。」(ヨエル書 3:15)がある。これを日食や月食を言っているという解釈もありうる。あるいは、「主はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。天も地も震える。」(ヨエル書 3:16)は地震を連想させずにはおかない。
 新約の世界に目を転じると、<しるし>として名高い一例として、<ベツレヘムの星>がある。東方の博士たちがユダヤの王が生まれる<しるし>として空の星を見た、という。東の空で輝くその星が博士たちを先導して、ついに幼子イエスのおられるところまで進んでその上にとどまった、というのである。クリスマスツリーの頂上に飾る星はこの<ベツレヘムの星>を表意している。
 3)割礼(H: mûlāh)は神との契約の<しるし>である。肉体を加工するこの慣習は古くからセム族一般に行われていた。その証拠の一端として、古代エジプトの絵画には割礼の図が残っている。聖書は<割礼>の起源について、次のように語っている。「あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。」(創世記 17:11)
 人類学ないし宗教学の考え方によれば、<割礼>は移行儀礼(rite of passage)とりわけ加入儀礼(initiation)に相当する。「…男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなくてはならない。(…)無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約をやぶったのである。」(創世記 17:11-14)
 神の業を示し、神との契約を表意するための<しるし>を仮に<起源と現実>のための<しるし>と見なすとすると、聖書にはこれとは別に<救いと終末>のための<しるし>も数々記されている。しかしいまこれらについては割愛せざるを得ない。
 要するに、ヘブライズムの伝統においては、人間がこの世界に属するという現実が――換言すれば、人間が生きているという、この<いる>という存在性が――唯一の神にして創造主に由来することを、<しるし>が表意しているのである。逆に言うなら、人間存在の存在性に意義を付与するために、<記号>という観念が<しるし>という言葉のもとに生成したのであった。
 (本題とは少し別の話しになるが、以上の考察は、ハイデガーの実存哲学が基本的にヘブライズムの枠内を超えていないことを再確認するよう読者を促がすという(思いがけない)効果をもっている。ただし両者にはもちろん重要な違いもある。例えば、まず目につくのは、ハイデガーにおいては大文字の神が<存在>という非人称的な超越者になっているという点だろう。これらの違いはともかく、重要なのはむしろ両者の類似性である。筆者としてはこれは発見の名に値するものであった。)
 しかもこの事情は、単にヘブライズムの伝統に限られた話しではない。この点を委曲を尽くして解き明かすためには相当に言説を費やさなくてはならないだろう。しかしながら、大小の規模を問わず多くの民族や集団が自分たちの<自己>を何らかの儀礼によって<しるしづける>ことを実施しているという紛れもない事実がある。その限りで、基本的にどのような民族や集団にとっても、<記号>という観念が<しるし>のかたちをとりつつ生成した点を疑うことができない。
(つづく)