実在性のカテゴリーについて ―記号主義から考える(3)

namdoog2007-07-16

 実在性をめぐる哲学論議はたいてい、実在していると主張されている何かしらのモノ(事物)あるいはコト(事実ないし事態)が本当に(really)存在しているのか、という設問をめぐってなされる。この問いに対して、肯定的な答え方をする(つまり、問題のモノないしコトは確かに存在していると応じる)見地は実在論(realism)と呼ばれ、反対に、否定的な答え方をする見地が反実在論(anti-realism)と称される。
 この種の議論における<実在性>のカテゴリーは限定的に使用されている。すなわち、この種の議論においては、カテゴリーが適用される存在領域が特殊的である点が前提となっている。この点こそが、<実在性のカテゴリー>の問題とわれわれが命名した問題の核心である。何が言いたいのか、デモクリトス(Dēmokritos、紀元前460−紀元前370)の場合を例として考えてみよう。
 この古代の哲学者は、真に存在するものはアトム(=分割できないもの)だけである、とした。そのアトムには形や大きさの違うさまざまな種類のものがあって、それらが空虚のなか一定の配列をもち運動している結果としてあらゆるモノやコトが生まれるというのである。(「生まれる」という言い方は奇妙であるが、近代風に「モノやコトとして経験される」と言えば奇妙さは減少するかもしれない。)従って、心の働きはアトムの運動にすぎず、もちろん<心>という特別な存在者などはない。精神的実体の実在性を否定するという意味で、デモクリトスのアトム説を<唯物論>と呼ぶことが許されるだろう。彼においては、実在性のカテゴリーは基本的にアトムにだけ賦与されるべきものなのである。
 哲学思想史において実在性の問題とは、このように、実在性のカテゴリーを賦与すべき存在領域を確定することをめぐる問題だった。もう一例を見ておこう。近世のヒューム(David Hume、1711- 1776)は認識論的関心から(途中の議論は割愛するが)実在するものは<観念>(ideas)に過ぎないとした。観念の結合と相互の関係の全体が実在する世界像をもたらすのである。とすると、観念なるいわばインターフェイスの向こう側に(像ではなくそのモデルとしての)<世界>そのものは実在するのだろうか?教科書では、この設問に積極的に答が出せないかぎりにおいて、ヒューム的認識論は懐疑主義だと記されている。(カント(Immanuel Kant, 1724 - 1804))はヒュームを読んで独断のまどろみから覚醒させられたという。)
 こうして、いわゆる<外界の存在>の問題が誕生することになる。(周知のように、デカルト(René Descartes, 1596- 1650)の場合にもよく似た問題状況があった。)その他、<過去>、<他者の心>、<普遍者>、<道徳的特性>などをめぐり、実在性の問題がやかましく議論されてきた経緯を読者は哲学史の教科書に見出すことができるだろう。
 実在性のカテゴリーの問いとは、以上で観察したように、実在性一般に関するものというよりむしろその適用領域に関する特殊個別的な問いである。この問いの問いとしての特徴に実在性のカテゴリーの秘密が隠されているのではないか。
 われわれの論点を明確にするために、最初になすべきことは、<実在性の問い>の構造を明らかにすることである。ここでブラックバーンの考察を援用することにしたい。(S. Blackburn, The Oxford Dictionary of Philosophy, Oxford University Press, 1994, pp.319-320.)
 彼によれば、Sという主題(具体的にはこれは、コトないしモノの記述という形をとる。<主題>そのものは抽象的で不可視の存在者であることに注意!)に関する実在論を主張する者は、実際、以下のような5つ組みの主張をしているという。(以下の定式はわれわれにより多少簡略化されている。)

1)Sによって記述された当のコト/モノが存在する。
2)このコト/モノが存在することは、われわれから独立のことがらであって、これらのコト/モノは心による工作物(artifact)ではないし、われわれの言語ないし概念図式の産物でもない。
3)Sを使用してわれわれが行う言明は他の言明に還元できない。
4) Sを使用してわれわれが行う言明は真理値を有する。換言すれば、その種の言明は端的に世界の記述であり、事実によって真偽を決定しうる。
5)われわれはSに関する真理に到達しうるのであり、Sを使用してなされた主張を信じる正当な権利がある。

 Sに関する実在論者を「S的実在論者」(S-realists)と呼ぶなら、ブラックバーンの特徴づけは、確かにS的実在論者の典型を浮き彫りにしている。
 ただし真理の問題に関して、彼は実在論者が「真理の対応説」をとるという想定に立っているように見える。もっとも、そう断定するには材料が不足しているきらいがあるが、「言明は世界の記述である」という言い方にその種の想定が隠れているように思えるのだ。もしそうだとすれば、それは過剰な規定ではないか。言明の真理をめぐる問題と実在論の問題は内的に結合しているわけではない。真理論として他の可能性(例えば、真理の整合説など)があることはよく知られている。しかも、「真理の対応説」そのものの限界もある意味で哲学を学んだ者の常識に属する。
 別の言い方をすると、真理論と実在論形而上学的位相ないしレベルを異にするのである。そこでわれわれは、実在性を論じるについて、当面、ブラックバーンによる定式の4)と5)を棚上げにしたい。ただしもう少し丁寧に言うと、4)を棚上げするとはいえ、その前半部を否定するには及ばない。すなわち、言明が真理値を有するという原理は真理論に不可欠の項目であり、これを否定した真理論があるとしても、トンデモ説の類に違いないだろう。しかしながら、以上に述べた理由によって、4)すべてをこの際無効にすることが許されると考える。この措置が、問題のポイントを闡明することに障害とはなり得ないからである。
 改定されたミニマルな定式を再度掲げることにしたい。

1)Sによって記述された当のコト/モノが存在する。
2)このコト/モノが存在することは、われわれから独立であって、これらのコト/モノは心による工作物(artifact)ではないし、われわれの言語ないし概念図式の産物でもない。
3)Sを使用してわれわれが行う言明は他の言明に還元できない。

 記号主義の見地からこの定式を検討するとき、実在論の問題性が鮮やかに浮かび上がってくる。それはどういう点なのだろうか。 (つづく)