実在性のカテゴリーについて ―記号主義から考える(2)

namdoog2007-07-07

 グッドマンの記号主義へ話を進める前に、モンテーニュの懐疑に関するメルロ=ポンティMerleau-Ponty, 1908 - 1961)の解釈を確かめておこう。<実在性>のカテゴリーについての理解を深めるためである。<実在性>と<存在>がカテゴリーとしてどのような意味で違うかをメルロのモンテーニュへの言及から学ぶことができる。さらに言えば、<存在>なる概念の捉え難さも浮き彫りになるだろう。
 メルロ=ポンティは遺稿のなかでモンテーニュの懐疑についてあらまし次のような意味のことを述べている。哲学的探究――interrogation, 翻訳では「問いかけ」となっている。「哲学的問いかけ」と熟す場合もあるが、要するにメルロ=ポンティが従来の哲学方法論を批判しそれに替わる知的様態として提出したもの。これが<懐疑>と密接に関係することがテキストで説かれている――を成り立たせる知的懐疑とはどのような種類のものなのだろうか。それは、すでに観念の絶対的確実性を先取りしてしまっている、ソクラテス流の「私は何も知らないことを知っている」ではなく、真の意味での「私は何を知っているか」(que sais-je?)である、と。
 ソクラテス流の無知は<知識>という観念を絶対に揺るぎないものとして前提している。一通りの認識態度を<知識>として絶対化しているのである。言い換えれば、ソクラテスは知識に関して自分が神の視点に立ちうるという擬態を演じている、と言い得るかもしれない。これに対して、モンテーニュの懐疑こそが哲学的探究をもたらす知的構えなのだ。
 こう言いながらもメルロは、モンテーニュの懐疑にある種の保留条件をつけている。真の意味で「私は何を知っているか」という問いかけが成り立つためには、<知る>という観念それ自体をモンテーニュの知識の対象に含めた場合に限られる、というのである。そうでなくては、「私は何を知っているか」という問いかけは、たとえば、地下鉄駅から地上に出たときに「私はいまどこに立っているんだろう」と戸惑いつつ問う場合がそうであるように、たんに認知的な意味合いにおける問いの一つにすぎなくなってしまうからである。(『見えるものと見えないもの』みすず書房、pp.177-178.)
 結局――メルロによれば――「私は何を知っているのか」という問いかけがそのまま哲学的探究でありうるのは、そもそもこの問いかけが「何があるのか」、さらには「あるとはどういうことなのか」を含意するからなのである。こうした問いは、それに終止符を打つような何か特定の実在性(realité)の提示を求めているのではない。そうではなく、この問いはいまだ実在性を賦与されていない<存在>の露呈を求めているのだという。(ibid.)
 断らなくてはならないが、以上の議論はメルロのテキストそのままの要約ではない。ここで「何か特定の実在性を提示する」という表現を使用したが、テキストにはこれと同じ表現はない。それに相当するのは「何か特定の物を提示する」という表現であり、続けて、「措定されたものではないような<存在>」という言い方が見られる。いずれにしても、テキストが狙いとしているのは、<存在>という超越概念に読者を導くことであり、この概念を基礎として構成される<実在性>の概念的な組み換えなのである。
 メルロは<存在>という概念についてこう述べている。<存在>が措定されたものでないというのは、そうされる必要がなく、私たちのあらゆる肯定や否定の背後に、さらには言葉に表されたあらゆる問いの背後に沈黙したままあるからだ、と。哲学とは、この沈黙と言葉(parole)との相互転換のことにほかならない。(ibid.)
 このくだりを筆者なりに解釈するなら、沈黙としての存在すなわち記号性のゼロ度としての<存在>について言及した途端、それはものを語る記号システムへと変貌せざるを得ない。記号システムには言語以外のシステムも含まれるが、そのなかでも有力なのは言うまでもなく<言葉>である。とすると、人間の思想史とはある言葉=記号システムを素材にしてそれを別の言葉=記号システムへと再制作することにほかならない。この再制作のプロセス(工程)をメルロは、端的に「沈黙と言葉の相互転換」と呼んだのである。――このような解釈が、グッドマンの記号主義にきわめて親和性が高いことは明らかではないだろうか。
 メルロのいう<存在>が否定性(négativité)でしかない点に注意が肝要である。存在のこの性格を言い当てるために、メルロは比喩的に存在を言葉=表現性との対照において「沈黙」と称したのだ。言い換えれば、あらゆる記号システムでは構成的に定義できないもの、それが<存在>である。
 だからといって、この否定性を絶対化してはならない。よく知られているように、サルトル(Jean-Paul Sartre, 1905‐1980)の存在論における基礎的概念である、<存在と無>(être et néant)の二項対立を曖昧化する点にメルロ的存在論の特色がある。
 ところが人はしばしば<存在>をこれとは正反対のもの、肯定的なもの(positivité)、それも絶対的肯定性(positivité absolue)としてイメージする。エレア派の始祖であるパルメニデス(Parmenidēs, 前5世紀)は、思惟のみによって把握される不生不滅・唯一不可分の何ものかを<存在>と捉えたという。サルトルは20世紀におけるエレア派を代表すると言えなくもない。
 <存在>は確かに言葉に尽くすことができない。なぜなら、<存在>の多義性にはコプラという意義(「〜である」)が含まれている。すなわち、という述語づけは<存在>のひとつの表意なのである。それゆえ<存在とは〜である>という形のあらゆる定義は、必ずや循環する。(論より証拠で、この定義を、<あるとは〜ということである>と言い換えてみればいい。)
 <存在>については、これを表現の地平で問うかぎり、パルメニデスが述べたように、いつでも「存在は存在する」といったかたちの同義反復(トートロジー)が得られるに過ぎない。しかし、「同義反復を理解する」という言い方は二重に意義を欠いている。まず論理学者が教えてくれるように、一般に、同義反復には意義がないし、第二に<無意義を理解すること>という事態にも意義はない!こうして、ここまでのところ、<存在>は飲み下すほか仕方ない擬似概念(<超越概念>という美称で呼んでもいいが)として立ち現れたことになる。
 グッドマンは『世界制作の方法』において、あらゆる実在性の基礎をなす何かしらを「基底部にある或る鈍重なもの」(something stolid underneath)と呼んで、これを貶めているように思える。しかし「貶める」のは記号主義の立場が先取されているからであって、絶対的な意味でそれを否定しているわけではない。(みすず書房版、pp.9-10, p.163.)私たちの問題との関連で言えば、この「鈍重なもの」については以下の諸点に注意が必要である。
 第一に、実在性とその根拠をなすものとの区別がグッドマンの体系にもある、という点。(しかし、区別するのは区別されたものの積極性を否定するためである!)第二に、グッドマンは後者を伝統的・神学的概念としての<存在>と呼ぶよりむしろ<材料>と呼ぶことで一貫している。この点に読者は、グッドマンにおけるアリストテレス的伝統を認めるべきだろう。第三に、グッドマンが廃棄した「或る鈍重なもの」の観念には、<肯定性>、<絶対性>などの含意が伴うという点である(この含意は<材料>のそれでもある)。いずれにしても私たちは、あらゆる実在性より<以前>について――哲学的探究の見地からは――積極的に問うことができないという了解が、メルロ=ポンティとグッドマンに共有されていたのを見出すのだ。 (つづく)