実在性のカテゴリーについて ―記号主義から考える(1)

namdoog2007-07-03

 人は誰でも実在性(reality)のカテゴリーを受け入れている。この意味で――素朴であれ無意識的であれ――形而上学者でない人間は一人もいない。
 例えば、あなたは目の前のテーブルの上に花瓶を見るだろう。そして「テーブルの上の花瓶が実在する」という命題を暗黙のうちに受け入れ、この命題に対して真であるという認識価値を与えているに違いない。簡単にいうと、あなたは、見えるがままの花瓶の実在を信じているのである。
 知覚したとおりの事物が世界には実在すること、さらに一般化して言うなら、世界とは知覚された事物を含んだ総体であること、こうした命題を主張する類いの存在論を、教科書では「素朴実在論」(naive realism)などと呼んでいる。なぜそれを「素朴」と称するかというと、それがデカルト的懐疑以前の存在論だからである。
 『方法序説』のなかでデカルト(Rene Descartes, 1596-1650)は「感覚は時として人を欺く」という言葉を語っている。この箴言がいうように、たしかに人は、感覚器官や神経などの作用のおかげで実在を偽装した形でしか知覚できない場合がある。言い換えるなら、知覚の錯誤や幻覚あるいは錯覚は人のつねなのである。
 デカルトが挙げている例をみよう。遠くに方形をした塔があると見えていたのに、近づいて改めて見ると円形の塔であったことに気づかされることがある。だとするなら、<方形の塔がある>という無意識の知覚的判断は誤りだったことになる。生きられた知覚が開示する事物の様態に素朴に<実在性>という形而上学的身分を賦与することがいかに危険なことか。おまけに、<円形の塔がある>という新たな知覚判断が絶対に正しいという保証があるのだろうか。
 デカルトの懐疑が常識人のそれとは類を異にしている点に注意が必要である。ふつう私たちは、この種の知覚の過ちをたんに知覚の偶然性として大目に見ている。なぜなら知覚は時として人を欺くのが事実であるにせよ、たいていの場合には真理を開示することをあてにしてよいからであり、たとえ知覚が誤った場合でも、その訂正可能性は残されているからである。
 これに対して、デカルト的懐疑はグロテスクに誇張された懐疑なのだ。一般に知覚の誤謬可能性が否定できないのだから、可能性がいかに低く見積もられるにせよ、多少とも疑いを容れるような知識の源泉を人は許容するべきではない、とデカルトはいう。なぜなら、脆弱な基盤のうえに絶対確実な知識の構築物を建てるわけにはゆかないからである。土台に亀裂があるのにその上に伽藍を建てることは許されない。それがいかに壮麗な外見をした教会でも、いつか地震で崩れてしまうかもしれないではないか。知識の構築物はどんな懐疑に対しても揺るぎないものでなくてはならない。
 したがって、結論は明らかである。知覚された世界に実在性を賦与することは、形而上学的にいって許されない、と。これがデカルトの方法的懐疑の主旨であった。つまり知識の源泉としての知覚は信じるに足りないというのである。
 これは哲学者の懐疑であって、こんな態度で日常生活をいとなむことは誰にもできない。そんな人は早晩神経を病みまっとうな社会生活をおくれなくなるだろう。しかしながら、デカルト的懐疑のすべてを捨て去ることもまたできない。端的にいえば、デカルトは反面教師であった。すこしでも確実な知識を求めるべきである、という格率(行動の方針)は間違ってはいない。知識の外見をしているものなら、オカルトであろうがスピリチュアルであろうが占星術であろうが、何でもかまわないというのでは困る(困らない人が最近多くなっているようにも見えるがどうなのだろう)。
 しかし、デカルトの「絶対的に確実な知識」という知識観や、「唯一で絶対の知識」に私たちは共感し得ないし、そうした知識観を共有もできない。筆者の見るところ、近代の哲学あるいは狭く言うと近代の認識論は<確実性の理念>に呪縛されてきたのであり――いまだに部分的には呪縛されたままである――そうした知識観の典型をデカルトに認めることができる。 
 話を実在性にもどすことにしよう。私たちの見るところ、デカルトには従い得ないが、しかし<懐疑の精神>は私たちに課せられた認識論的要請にほかならない。私たちは、<懐疑の精神>をくぐりぬけたさきに<知識>の所在を探求すべきだろう。こうして、ここでクローズアップされるのは、デカルトのほぼ同時代人、あのモンテーニュ(Michel de Montaigne,1533−1592)が体得した別の種類の<懐疑>だろう。
 彼こそは、異文化(古代や非ヨーロッパ世界)に属する知的体系がヨーロッパの知的体系に匹敵し時には凌駕することを明確に説いた人物であった。私たちがいま浸りきっている知識のシステムは必ずしも誤謬を免れてはいないし、唯一のシステムでもない。そこで彼は自問するのである。「私は何を知っているのか」(Que sais-je?)と。モンテーニュは既成の知識のシステムに疑念を呈しているのであって、それを否定しているのではない。同時に彼はあらゆる知識を否定しているのでもない。何事かを知っていることを彼は当然のこととして認めている。しかし「私は何を知っているのか」と問うているのだ。
 これは、無知を断言するソクラテス的逆説(「私は何も知らない、しかし知らないということを知ってはいる」)でもなければ、確実知の呪縛の裏返しとしてのデカルトの懐疑(「疑いをいれうる知識はすべて無価値である、すなわち、疑いうるものは知識ではない」)でもない。私たちはすでにいつでも何かしら知っている。私たちは、あらかじめの知的前提からしかスタートできない。だが同時に、この前提にとどまることもまたできないのだ。(モンテーニュの懐疑は<相対主義>の問題にかかわるが、これについてはまた後で触れることがあるだろう。)
 ところで、モンテーニュの懐疑は、20世紀においてグッドマンの記号主義に忠実に受け継がれていると言えば、意外に思う向きもあるに違いない。 (つづく)