という知的探究を構想する

namdoog2007-06-18

 筆者が編集した『レトリック論を学ぶ人のために』(世界思想社)(amazon:レトリック論を学ぶ人のために)がこの5月に刊行された。本の構成を紹介しておこう。全体は酈部9章からなる。それぞれの章を一人の筆者が担当しているので、筆者も含めて9名の研究者の協力のもとに出来上がった本だというわけだ。(これが陽の目を見るまでの苦労話は控えておこう。刊行までの道のりは思いのほか遠く険しいものだった。)

『レトリック論を学ぶ人のために』目次
 まえがき 菅野盾樹
Ⅰ 伝統に学ぶ ―レトリックの現代化―
第1章 弁論術としてのレトリック ―法学からのアプローチ― 平野敏彦 

第2章 修辞学としてレトリック―美学からのアプローチ― 松尾 大 

Ⅱ 認知革命以後―認知科学とレトリック―
第3章 言語学からのアプローチ          谷口一美
第4章 心理学からのアプローチ          佐山公一
Ⅲ コミュニケーションとレトリック
第5章 コミュニケーション論からのアプローチ    鈴木 健
第6章 関連性理論からのアプローチ         能川元一
Ⅳ 哲学思想とレトリック
第7章 レトリックの存在理由―ヴィトゲンシュタインと比喩の諸相―
                         丸田 健
第8章 現代思想の眺望から―フロイトラカン・生命― 檜垣立哉
Ⅴ 総括と展望―レトリック論の将来に向けて―     菅野盾樹
編集後記 菅野盾樹
索引

 筆者が主宰する勉強会でいまこの本をテキストに輪講会を続けている。この16日に第二回が行われた。そこで筆者とK君が発表者として話したのだが、その話の密度や仕上がりはともかくとして、思った以上に議論が盛り上がったのはうれしい成果であった。
 『レトリック論を学ぶ人のために』に関しては、編者の私から約80名の方々に献本をおこなった。まだ日も浅いためか、感想などのフィードバックもあまり返ってきてはいないが、多くはない反応のなかみを強いて分類すると、次のように二分されるように思える。ひとつは、この本がレトリックを主題にしたもので、従来知らなかった知識を学ぶことができてよかった云々というもの。もうひとつは、発想の源泉と方法論としての古典的論理学を墨守してきた現代哲学に大きなアンチをつきつけた興味深い本であるというもの。もちろん、前者の感想は本書の意図を完全に取り違えている。(何かについて語ることは、実は自己を語ることである。これは恐ろしいことだ。)
 この本が何を目的に編纂されたかを、私は「まえがき」にはっきりと書いておいた。この本は、言語的技法としての「レトリック」研究への入門書では全然ない。
 人間がホモ・ロクエンスであるかぎりにおいて、言語は人間性の一部であり、その言語の本質が明らかにレトリックにあるにもかかわらず、従来の言語探究(正統的言語学言語哲学など)がそれを無視してきたことは不当だといわざるを得ない。正統的な言語探究は<字義性>のドグマに絡めとられてしまっている。しかしとりわけ70年代の「認知革命」以降――言語哲学における語用論的探究と並行しながら――言語学・心理学・人類学などからのレトリック研究がそれなりに盛況を呈するようになった。
 こうした動向に掉さしながら、現在思想の立場に立つ者の一人として筆者は独力で<レトリック理性批判>を哲学の営みとして切り拓いてきた。その最初の成果が『メタファーの記号論勁草書房、1985、にほかならない。すでに20数年以前のことになる。
 本書のタイトルにある「レトリック論」(rhetorical studies)とは――カント哲学をもじっていうと――「レトリック理性批判」を意味する。換言すれば、本書は、経験科学や思弁哲学など多面的な方向から人間性の一部としてのレトリックを考察することを通じて、それぞれの考察の収斂点に<言語と理性>の原像を結ばせようと意図した本なのである。
 「総括と展望」では、レトリック論の担うべき課題やすでに得られている方向性について概論風に論じてある。一回や二回の研究会ではそれぞれの論点を取り上げ十分に展開することは不可能にちがいない。これは一般の読者に関しても同じ事情にあるだろう。読者に期待したいのは、<レトリック論において何がどのように問題となるのか>という問題に関しておおよその理解を形成していただくことである。
 私の後を引き継いでK君にはもっぱら「記号システムの再帰的構成」について話してもらった。彼の話を途中で引き取る形で何度も私も口を挟むことになったが、これは本年度の「大阪大学大学院人間科学研究科紀要」に同君と一緒に書いた論文(http://www.hus.osaka-u.ac.jp/kiyo/file/33/33-03_sugen.pdf)を寄稿しているという事情による。
 言語観の革新という主題をつきつめて考えるうち、私は記号システムに通有する<再帰的動き>(recursive move)という構成原理を見出した。言語が言語以前のシステムを素材としながらその再制作(remaking)として作られるプロセスを一つの形而上学的物語として描写することが上記の論文で狙いとしたことである。記号システムの制作とはいつでもすでにその再制作のことにほかならない。メイキングとはリメイキングのことなのだ。
 ところで数学の領域で似たようなアイデアをすでにカヴァイエスがもっていたことを、昨年にK君の書いた文章から知ることになった。そこで彼に対して、筆者が抱懐する論文の構想を示し、彼の役割として言語についての私のアイデアを補強するかぎりでカヴァイエスの数学の哲学に言及してもらうことにしたのだった。こうして書かれたのが上記の紀要論文である。当日のK君の話はいつになく贅肉がそぎ落とされていてきわめてクリアであったと思う。
 数学の基礎論というそれ自体哲学的な考察の領域がある。従来、論理主義、形式主義直観主義等いくつかの見地が提示されてきた。しかしカヴァイエスの考察は、これらの見地を包含しつつそれを歴史性へと超出する、オリジナルなものである。私見では、ドイツあるいは英米系の数学基礎論が大きく見落としてきた論点を正視するところから、彼の見地が切り開かれた。カヴァイエスナチスとの抗争において夭折したことはいくら惜しんでも惜しみすぎることはないだろう。残された著作に含まれた可能性のあるアイデアを掘り起こし展開することは、後に遺された者の責任に属する。従来、彼の仕事の本格的な研究はあまりにも少なかった。K君の仕事はその大きな欠落を埋めようとする点で意義がある。
 ただし、言語と数学とは同じ記号システムとはいえ、二つには共通点と相違点とがある。どちらも人間の身体の動きないし身振りあるいは行動と切り離せないという共通点がある。例えば、数論とは、簡単に言って、指折り数えるという身振りを再制作した記号システムである。人間が数えることができなかったのなら、数論は成立しなかっただろう。しかし言語が(身体性のアプリオリに強く制約されるという意味で)人間の自然性(本性)に強く繋がれていると言い得るなら、数学は身体性とのつながりが一見して明らかではないような理念性の圏に帰属していると思える。
 言語が自然史の一部であるとするなら、数学はむしろ工作物(artifact)の趣きが濃厚である。数学の歴史は単なる自然史ではあり得ない。数学は文化の一部を形成するからである。しかしながら、両者を絶対的に切断してはならないだろう。あるスペクトルの両極だけを比較すると白と黒のように対照的で両立しない二つの対象に、両者をつなぐグラデーションの帯が背景にある点を忘れることは出来ない。言語と数学の異同という問題については、主題として正面から取り組む必要があるだろう。
 会の終了後、筆者は、あの紀要論文に今一度手を加えていっそう説得力のあるものとする必要があると感じた。理論的考察にはどうやら絶対的な意味でのオシマイというものがないようだ。