言語の実像を作り直す (9)

namdoog2007-05-29

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 初発の言語音を<サンプル>という記号形態に比較することができます。ご承知のように、サンプルの種類は多種多様にわたっています。レストランのショウウィンドウをかざるメニューの見本、デパートの食品売り場でお客に供される新発売のパンの一切れ、植物標本、琵琶湖の水質検査のために採取されたビーカーの水などなど。
 最後の例を取り上げてみましょう。結論的に述べれば、グッドマンの指摘のように、このサンプルは、<所有>(属性のpossession)と<指示>(reference)の二つの要因によって湖の水質を例示する記号です(exemplify: exemplification)。このサンプルは属性の反復によって水質に類似するかぎり、そのアイコンの働きを示しますが、他方、サンプルと湖との事実上の関係(因果関係、近接性、部分と全体の関係など)で結合されているかぎり、インデックスの機能を有してもいます。
 このように、サンプルは<例示>の機能を発揮しますが、同様に、初発の言語音の機能も<例示>だとしていいでしょう。しかしサンプルと初発の言語音には違いもあります。それは記号としてのオーダーに関する違いです。通常のサンプルは、サンプルというタイプの記号として、その他のタイプの記号と構成された、全体としての記号システムの中である位置を占めることによってすでに一定の価値を付与されています。
 ところが、後者はまさにいま記号の<生成の位相>に置かれています。つまり、言語音♪ポッポ♪は、公園に舞い降りた鳩と事実上の関係で結びつくことによって、<鳩>の言語的カテゴリーを創発するのです。逆に言えば、言語音♪ポッポ♪は、すでに形成ずみの<鳩>のカテゴリーを単に例示するわけではありません。
 子供が言葉を口にするということは、言語的カテゴリーを作り出すことを通じて、従前の世界の面目を一新することです。この瞬間に黙示的な世界制作(tacit worldmaking)が、明示的な世界制作(manifest worldmaking)遷移することになりました。ここで言う<明示的>とは、“口に出して言われた”ということですが、それはほとんど“分節化された”と同じです。しかしながら、厳密に言うと違いがあることに注意が必要です。
 一般に、<世界制作論>の観点から、<制作されつつある世界>(the world in the making)と<取りあえず制作された世界(the world provisionally made)>の相互関係の中のバランスに即して<世界>という存在者について観察する必要があるでしょう。この相互関係は、結局のところ、記号システムの再帰的動きにほかなりません。言語音の生成はこの再帰的動きの重要な一部を構成しています。
 言語に関して再帰的動きは一回では完了しません。チョムスキー派の言語学者は、幼児の言語学習がある短期間に一挙になされるという観察を述べていますが、それには多分に誇張があります。じっさいは、幼児は言語をかなりの期間にわたってピースミールに習得してゆくほかないのです。
 しかし問題は言語知識の量的な拡大ということではありません。発達のある時期に獲得された言語はそのまま継ぎ足されて拡大してゆくのでなく、すでに獲得された言語システムを素材にしてそれを裁ちなおし、作り変えることを通じて別の言語システムへと移行してゆくと見るべきです。こうして幼児は認知的な意味における<成人>となるまで、何度となく記号システムの再帰的動きを経験することになります。これが幼児の<発達>ということなのです。
 このように、世界制作の再帰性は原理的に自然数と同じように無際限であるというべきではないでしょうか。

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 言語音にそなわるアイコン性とインデックス性という機能がすでに初発の言語音に認められることが確認できました。それでは、パースが言語機能の第三の機能――しかもある意味では言語本来の機能であるシンボル機能についてはどうなのでしょうか。
 パースによれば、<シンボル>とは記号表現が習慣(habit)にもとづいて対象を代表するような記号の形態です。
 心理学は<習慣>を学習によって後天的に獲得され、比較的に固定化するに至った反応の様式、というふうに規定しています。この定義の前半部は、試行錯誤あるいは行動の反復が習慣を作り出すことを言っていますが、後半部は、<固定化した反応の様式>に言及することで、習慣に関して、その一般性、理解可能性、パターンないしルールなどの特徴を抽出しています。つまり、ある反応の様式が一回限りのものではなく、それが一般性をおびルールを体現しているとき、それは有意味なものとなる、というわけです。そしてこの種の反応の様式を<習慣>と呼ぶというのです。
 習慣獲得を<学習>の視点から眺めると、ルールとしての習慣が形成される以前にルール化されていない行動が繰り返し反復されるのが分かります。しかし、この「行動」はじつは<行動もどき>でしかありません。<ルール化されていない>という行動の様態については、<ルール化された行動>したがってまた<ルール化するもの>としての習慣を先取りすることによって初めて言及が可能になるからです。
 習慣問題の核心は、<習慣的な行動はいかにして可能か>という問いにあります。それもまた心理学的な意味での「習慣」によるのだ、と応じるなら、無限に後退する破目になるでしょう。<習慣>概念の核心は、<ルールの現実化>という点です。それは<規定する概念>(determinant concept)であって、<規定された概念>(determinate concept)ではありません。
 以上の考察から、初発の言語音とシンボルのかかわりに関して一つの知見を引き出すことができます。幼児が初めて口にした言語音は、アイコンやインデックスの機能をもつと同時に、それが言語的カテゴリー化と認知の営みであるかぎりで、ただちに習慣の形成に相当する。それゆえこの言語音は<シンボル>としていちはやく機能している、と。

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 言語記号について、その表意作用が<慣習>ないし<規約>(convention)に基づいているという言い方がしばしばなされます。この場合の<慣習>の意味するものは必ずしも一義的ではありません。ここでは、自然の紐帯(lien naturel;natural tie)で繋がれていない記号表現と記号内容とを、言語共同体が所有するコードにより結合し、この結合に依拠して言語記号を使用する「比較的固定した」行動の様式と理解しておきましょう。
 ここからわかるのは、<シンボル>としばしば結び付けられる<記号の規約性>はシンボルの本質的条件ではない、という点です。
 シンボルが一見して対象と自然の紐帯が何もないと思える例(イヌを/イヌ/という言語音で表す必然性はないように思える)においても、初発の言語音にまで遡ることができるなら、その語のシンボル性の陰にアイコン性やインデックス性のうごきが再発見できるかもしれない。まず/イヌ/を♪イヌ♪として捉え返す必要があるでしょう。
 ソシュールの<言語記号の恣意性の原理>は明白に覆されることになります。しかし経験科学としての言語学が実際そのような研究を遂行しうるかどうか、これは疑わしいことです。大半の言語に関しては、その始原は、残念ですが、跡形なく失われてしまった(the origin well lost)と言わなくてはなりません。                 (ひとまず了)