言語の実像を作り直す (8)

namdoog2007-05-21

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 言語音の機能的生成の記述を続けることにします。
 ♪ポッポ♪という言語音で鳩を捉まえた幼児には、模倣の生得的能力がそなわっていたと言うべきです。まず、この♪ポッポ♪という音声は、そもそもこの音声=言語音によってカテゴリー化され概念化された対象(=鳩という生物種)の属性つまり鳴き声というその特性にほかなりません。幼児だけでなく、傍らにいた大人も鳩の鳴き声をこの表記法で記述できる音声として聴取していたに違いありません。そして、太郎君はこの特性をみずから反復したに過ぎないからです。対象の属性を反復する能力とは、言い換えるなら、それを模倣する力のことなのです。
 この点を少し厳密に考えてみたいと思います。第一に、対象の特性の(言語主体による)反復は、属性の単なる共有とは異なる事態です。例えばここに二枚の百円銀貨があるとしましょう。一方の銀貨は他方にまさしく酷似していますが、だからといって、この銀貨が他の銀貨を「模倣」している、などとは言い得ないでしょう。
 第二に、この反復の仕草は、そうしたいという明示的意図による振る舞いではありません。藝人がたくみに有名歌手の真似をする場合、これは一種の演技であって、歌手の振る舞いを模倣しようとする意図に基づいています。しかし、模倣の振る舞いとしての幼児の言語音は<意図せざる模倣>であり、<共感>(sympathy)や<引き込み>(entrainment)という心理的機序を基礎とする点で、大人がする意図的模倣とは異なります*。

*<引き込み>を「生体リズムの同調化」と規定する心理学者もいる。(小林登ほか「周生期の母子間コミュニケーションにおけるエントレインメントとその母子作用としての意義」『周産期医学』vol.13, no.12.)例:生後四ヶ月の赤ちゃんの前で観察者が掌をゆっくり開いたり閉じたりした。赤ん坊はじっと手の動きに見入り、その動きをあわせて、自分の手を見ることはしないで、指を開いたり閉じたりした。(村田孝次『言語発達の心理学』培風館、1977.)

 <共感>とは主体が対象の属性を共に(sym-)することであり、問題の属性にそのまま感情価(pathos)が浸透しています。この種の能力は言語主体の<自発性>の一部です。そのかぎりで<模倣>は、コメディアンの物真似とは異なり、反表象主義的な性格を呈しています。それもそのはず、われわれが直面しているのは、いま<表象>が生成する瞬間にほかなりません。したがって、表象を前提にする訳にはゆかないのです。
 先に進む前にここで以上の観察をまとめて置きましょう。すなわち、世界が奏でる音響に共鳴する身体が発する言語音には、二つの条件があるということです。第一の条件は、言語音が充足すべき<属性の共有>という形而上学的な性格のもの、そして第二の条件は、言語音が身体の動きないし振る舞いとして、<身体性の転調>〔modulation; 楽曲の進行中にその調を他の調に転ずること〕であるかぎりで発話の主体(sujet parlant)がそなえる<模倣>という生得的な能力です。
 このまとめからただちに次の帰結が導かれます。つまり、初発の言語音にはアイコンの性質がある、という事実です。しかし、この言語音が<アイコン>であるという言い方は誤解を招くものです。換言すれば、初発の言語音が<アイコン>という記号の種類ないしカテゴリーに分類される、と断定するのはどうでしょうか。われわれはむしろ、初発の言語音はアイコン性という機能を担う、という言い方が好ましいと考えます。なぜなら、ここでは深入りできませんが、パース(C. S. Peirce)が提唱したアイコン(類像)・インデックス(指標)・シンボル(象徴?)という記号の分類方式 (taxonomy) は理想的な場合にしか妥当性を持たないからです。
 幼児が初めて口にした言語音がアイコン性を発揮するというわれわれの言明は、一般に、語彙が擬声語に起源を持つという主張ではありません。そうした主張は明らかに内容が空虚ではないでしょうか。なぜなら、♪ポッポ♪が鳩の鳴き声の模倣であるという前提は――この言語音がオノマトペであることを意味する限り――<同義反復>あるいは<論点先取>であるに過ぎないからです。
 まとめから引き出される他の帰結は、われわれが予想するよりはるかにラディカルなものです。初発の言語音が対象の属性の反復によって構成されたという命題は、その属性が必然的に音声であるという命題を含意しません。選ばれた属性は、鳩の仕草でも形態でもよかったのです。(もちろん、オノマトペ起源の語彙があることを否定しているのではありません。)おそらく、手話が生成する可能性を根拠付けているのは、言語音のこの意味での<偶然性>なのです。
 言語音のアイコン性の記号学的根拠は、記号システムの<再帰的動き>という構成要因にあり、この要因をどのような属性で実質化するかは別の問題です。
 それにもかかわらず――話がややこしく感じられるかもしれませんが――この構成要因が言語音の制約である限り、反復される属性は音としての質をもたざるを得ません。言語音が音の質を持たざるを得ないのは、事実的必然性です。
 換言すれば、原初の(original)言語音はそれが代表するものに<音としての質>を必ず付与します。この限りにおいて、言語音はつねに<音象徴>(sound symbolism)として生成するほかないと言えるでしょう* 。

*夜がふけてゆくありさまを――起源からはるかに遠く展開した形態の語彙であるとしても――「しんしん」という音の質で表現する。オノマトペ(擬声語onomatopoeia)や擬態語(psychomimes)は<音象徴>を基礎とする語彙の区分に過ぎない。

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 言語音がそのただなかで生成する環境を<記号環境>(semantic environment)と呼ぶことにしましょう。ここで<環境>に言及するのは、従来の自然科学的アプローチが対象をその文脈から切り離して(その意味で絶対的に)観察し分析してきた手法に基本的な疑義が存するからです。とりわけ、言語は身体の振る舞いにほかならないのであって、そのかぎりで身体が帰属する環境(ユクスキュルのいう<環世界>)と身体とをセットにして考察する必要が生じます。
 初めて幼児が口にした言語音は、当然ながら、記号環境の構成要素です。しかも(ユクスキュルの環世界論Unwletforshungが明らかにしたように)、記号環境とはそれ自体がただちに記号システムでもあります。ここでもわれわれは、言語音の生成が記号システムの再帰的動きであることを確認することになります。
 記号音の生成は次のような効果をもたらします。記号環境の特定のニッチにおいて言語音はいわば孵化する(卵からかえる)のですが、こうして生まれた言語音が、今度は逆に記号環境の非言語的要素(例えば、<鳩>という知覚項)をあらためて言語的に構成することによって、<世界制作>(worldmaking)に新たな次元を拓くのです。
 言語音が知覚項の属性を反復するかぎりにおいて、記号としての言語音は<インデックス>として働きます。知覚項=鳩と♪ポッポ♪とは事実上結合しているからです。(足跡が泥棒のインデックスであることと比較してみてください。)
 初発の言語音に確認できるこれら二重の記号機能は、いずれも記号環境に制約されています。(そもそも、言語音の生成とは記号システムの再帰的動き=世界制作ですから、これは当然のことだと言わなくてはなりません。)したがって、原理的に、あらゆる言語音は、ソシュール記号学の用語で言う<有縁的>(motivé)なものです。逆に言うと、いかなる言語音も恣意的(arbitraire)ではあり得ないでしょう。 (つづく)