言語の実像を作り直す (7)

namdoog2007-05-16


 われわれは、言語音を以上のような三層構造の統合体として捉えたいと考えます。あるいは、言語音とは<構造の厚み>なのだと言いたいと思います。
 こうした見地への最大かつ最強の異論があるとすれば、それはこの種のもの以外にはないでしょう。すなわち、消極的な言い方だと「構造の厚みは論理形式の担い手にはなりえない」という異論です。逆に積極的に言うなら、「論理形式は分節音が表示する構造にのみ担われる」という主張となります。
 そもそも<論理形式>(logical form)とは何を言うのでしょうか。これを異論のないように厳密に規定するのは難しいかもしれません。しかし、そうした概念を形成しなくてはならない動機は明らかです。
 例えば日本語の話し手は、日本語でなされた発話の内容の間に「論理的」つながりがあるという暗黙の理解をもっています。論理学者はこの「論理的つながり」を<含意>として術語化します。ということは、ある言語Lの文aが、Lの他の文の集合Xから導かれるとき、この言語に認められる関係性のことにほかなりません。
 以上は言語の形式の問題ですが、同じ<含意>という概念を言語使用の観点から捉えなおすことができます。通常は次のような説明がなされています。――もしLの話し手がXの要素であるすべての文を受け入れる(これはおのおのの文を理解すると同時にその文が真であると想定するということであって、真だと信じることではない)なら、文aをも受け入れるのにやぶさかではないだろう、と。(もちろん、この話し手は、健全な言語知識の所有者であるはずですし、正常な記憶の持ち主でなくてはいけません。)この説明においては、話し手が文aを受け入れた根拠のすべてが、文の集合Xを受け入れたことだけにあること、この場面に文の受け入れ以外の何か経験的根拠が介在する余地はないという点が重要です。(例えば、文aを受け入れるやすくする何か心理学的理由や経験的で統計学的な根拠などは関係ありません。)つまり、話し手がまずある文の集合を受け入れたとして、ここに含まれた各文と新たに受け入れた文aとの間になりたつ、純粋に「構造的関係」だけが問題である、というわけです。
 この説明に即する限り、われわれのように言語音に<構造の厚み>を許容すると、パラ言語学的要素に関して問題が生じる破目になるでしょう。すなわち、<言語情報と非言語情報>を混同するという困った事態が起こるのです。それはいかなることなのでしょうか。
 情報科学やコミュニケーション研究などの分野で<パラ言語>への関心が高まっている印象があります。多くの研究者は、パラ言語について――典型的な例を挙げますが――「会話は言語情報の伝達だけを実現しているわけではない。音声言語に付随した声質、表情、身振りなどに発話者の態度、状態などが現れており、これが伝達されることではじめてスムーズな会話が成立する。このような言語情報以外で言語情報の伝達を促進するのに機能する情報はパラ言語情報と呼ばれる」と解説しています。
 こうした理解は正しいのでしょうか。われわれはむしろ、言語情報/パラ言語情報、という二分法が間違っていると考えます。
 上に掲げた引用では、工学的観点から説明がなされているために、ご覧のように<情報>のキーワードが説明中で繰り返されています。ここではさしあたり、情報を<目だって有意な差異>(perceptibly relevant difference)という概念で規定しておきましょう。(しかし考えてみるに、perceptibly relevant は冗長な措辞です。端的にまた単純に<差異>でも本来は十分なのではないでしょうか。そのとおりだと思います。しかしここでは、理由のない物理主義や客観主義が横行している現在、殊更に主観的表現を選んでみました。)
 人の目をひく事態あるいは耳をそばだてさせる事態が生じたとき、人はそこに<情報>を見出します。あるいは、<注意>の向けられるものは情報を担っています。(物理主義や純然たる客観主義では情報が概念化できないゆえんです。)
 かつてパースはここに記号の指標性(indexicality)を認めました。例えば、コップが割れて床に破片が散乱しているのを目撃したとします。この光景に人の注意が向けられ、こうしてこの知覚内容に<有意な差異>が帰属することになります。なぜなら、床にガラス片が散らばっていることは尋常な事態ではないからです。普通の状況(normal situation)にある変化がもたらされ、<有意な差異>が知覚の場面に露呈したわけです。
 それゆえわれわれの思念は、指標性に導かれつつ、このコップを床に落としたという人称的な出来事に向かうことになるでしょう。人は、いつどうして誰が落としたのかという不審の念をいだきます。場合によっては、いわば複数の変数をかかえた事態の解を求めようとするかもしれません。床の上に与えられたのは、<指標>(index)であり<手がかり>(cue, hint)であり、つまりは情報(information)です。

10
 「今日はひどく蒸し暑いな」という発話を考えてみましょう。言語情報とは実質的に何をいうのでしょうか。それはおおむね、ということに違いありません。しかしながら、成分として明示されたt, sへの言及は言語的指標性の実現形態であり、りっぱに<言語的な>情報ではないでしょうか。それを<言語的情報>と峻別された何か特殊な<パラ言語的情報>と見なす理由があるのでしょうか。
 tにかかわる情報は、発話中で使用された「今日」という指示表現に由来しています。他方、sに関しては、この発話がなされたという事実性、つまりいわゆる<パラ言語情報>に情報の源泉があるようにも見えます。しかし実はこれとても<言語情報>である点では何の違いもありません。
 確かに、話し手の心理状態や態度などについての情報は直接的に<言語情報>の中に表されてはいません。これを理由にして、そうした情報が言語的でないと決め付けるのは正しいのでしょうか。むしろいま、俎上にのぼせるべきなのは、表記法の問題ではないでしょうか。
 話し手の心理状態へアクセスするための標識がもとの発話に具わっている以上、この標識を発話の命題形式に織り込むことができます。例えば、次のような命題がそれにあたると言えるでしょう。 もっと簡略化して話し手の態度や状態をpで代表させることにすれば、< tという時間規定、sという空間規定において、天候はひどく蒸し暑い、そしてp>が得られることになります。
 いっそのこと、今どきの人のように、顔文字を遣ってもいいかもしれません。こうして、の代わりに、 が得られるはずです。この顔文字の部分の表現は単なる一例であって、洗練の度をさらに加えることが理論上は可能です。
 以上の議論から、われわれは、次のような結論を導くことができます。――<音声言語に付随した声質、表情、身振りなどに発話者の態度、状態などが現れている>という確認から、<このような言語情報以外で言語情報の伝達を促進するのに機能する情報はパラ言語情報と呼ばれる>という結論へ至るのは、予断ないし飛躍に過ぎない、と。
 決定的な言語現象をあげましょう。それは<沈黙>です。沈黙も立派な言語要素ではないでしょうか。誰でも経験上知っているように、沈黙はある場合まことに雄弁です。しかし正統的言語学も論理学も、<沈黙>が表現の論理形式に寄与するとは考えてはきませんでした。当然のことです。沈黙とは言語音が生じていないという意味で<言語の無>であるからです。しかし沈黙も実は<言語情報>をりっぱに担うのです。それというもの、ある発話が他の発話と「論理的つながり」を保つことを支える原理が発話の<論理形式>にあるとすれば、<沈黙>も立派にこの<論理形式>の要因として機能するからです。
 これまでの議論をまとめたいと思います。<発話者の態度>を表す記号表現は発話の構造の中へ統合することができます。その限りで、この記号表現はまさに<言語情報>を担っています。逆に言うと、<言語情報以外で言語情報の伝達を促進するのに機能するパラ言語情報>なる独特の<情報>を想定する理由はありません。 (つづく)