言語の実像を作り直す (6)

namdoog2007-05-08

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 <再帰的動き>(recursive move)とは、記号系を別の記号系へと作り直す働き(remaking)です。知覚においては、知覚的素材としての知覚項を新たな知覚項へと作成し直すことであり、言語においては、言語的素材としての知覚項を別の水準の知覚項へと作成し直すことです。
 知覚項と言語的概念とを二項対立的に捉える必要はありませんし、そうしてはならないのです。子供が口にした言語音を他人が聴き取る働き(認知)は、それ自体が知覚項の構成にほかならないからです。メルロ=ポンティに言わせるなら、言語は何か特別な知性の働きによってその意味が理解されるのではなく、さながらわれわれが目の前に花を挿した花瓶を眼で見てとるとき、この認知が視覚モダリティに即して実現されるのと同様に、聴覚モダリティにそくして知覚されるのです。<言語の知覚>というアイデアこそ、20世紀の言語思想にメルロがもたらした新しい観点でした。
 言うまでもないと思いますが、人間の行動や身振りはやはり<再帰的動き>、言い換えるなら、記号系の自己生成です。もともと<動き>という隠喩的カテゴリーは、人間の身体行動に由来していました。したがって、字義的な意味での身体行動は(強い意味で)再帰的動きであると言わなくてはならないでしょう。
 例を一つ考えて見ましょう。「這えば立て、立てば歩けの親心」という言い方をご存知でしょうか。ハイハイできるようになった赤子を見て親は喜びます。そして一日も早く立てるようになることを願うのです。親の願いのとおり、ハイハイしかできなかった幼児も、やがてある発達の時点でこのハイハイの身体能力を組み替え作り直すことによって、見事に<立つ>という動作を実現します。
 ここにわれわれは記号系の<再帰的動き>を再び確認することになります。この発達は単なる生得的能力の発現ではありません。もちろん<立つ>という身体運動のために、何らかの生物学的な基盤があるのは当然のことでしょう。(例えば小脳の発達はそうした基盤の一つです。)ここでは深入りできませんが、<本能>という曖昧な観念に躓く人が多いように思えます。個体発生に関してこの観念を持ち出すのはあまり意味がないでしょう。われわれは、本能と学習の二項対立を克服しなくてはならないのです。
 ここでようやく言語音の構造を明らかにする用意が整いました。太郎君が制作した言語音を/ポッポ/と表記したのは単なる便宜的なやり方でした。正統的言語学のこのやり方、つまり言語音を単なる<分節音>に還元するやり方は拙速だと言わなくてはなりません。
 正統的言語学のパースペクティヴから見ると、言語をめぐる探究としておおむね三つの言語学的部門が成立しています。――つまり、言語学・パラ言語学・動作学(kinesics)です。
 パラ言語学(paralinguistics)とは、 <プロソディー>(prosody)の系統的研究のことです。さて<プロソディー>とは何でしょうか。われわれは、正統的な言語理論で理解されているその観念をもっと広く捉えたいと思います。もっとも狭い意味では、プロソディーとは単に韻文のリズムの理論であり韻律を用いた作詩法(韻律法)でした。その後、理論家たちは、単に詩の問題に考察の範囲を限らず、一般に発話のリズム、強勢(stress)、抑揚intonation)、高低(pitch)、音調(tone)などをこのカテゴリーに含めることになりました。換言すれば、分節音*以外で言語学的に有意な発声要素もすべて<プロソディー>と呼ぶようになったのです。
 これらは音声学(phonetics)の対象として緻密な研究がなされてきました。しかしわれわれはさらにこのカテゴリーを拡大しようと考えます。音声の質、発話に介在する沈黙、ノイズ、音声としての笑い、泣き、溜息などと上記の要素を全部含めて、<プロソディー>と称することにしましょう。
 これは正統的言語学にとっては、スキャンダルです。なぜなら、<沈黙>とは言語の無ではありませんか!音声ですらないのですから、言語学が調べるわけにはゆかないでしょう。しかし日本人は昔から<沈黙>が発話にとっていかに重要な要素かをわきまえていました(例えば、落語などの話藝にとって<間>は致命的に重要です)。
 ノイズにも同じ指摘をおこなうことができます。定義上、これは言語音ではありません。音韻論にとっては、むしろ音素を攪乱する困った要素に過ぎません。しかし普通の発話においては、ノイズはなるほど発話を聴き取りにくくする要因ともなりますが、場合によっては新たな音素の素材ともなりますし、発話のダイナミックスに寄与しています。換言すれば、ノイズも言語の機能にポジティブに関与するのです。この広い意味でのプロソディーの研究がパラ言語学の任務となります。
*ちなみに、分節音は、やはり言語学の一部門としての音韻論(phonology)が調べている。
 動作学(kinesics)とは、辞書の定義によると「身ぶり、手振り、目の動きなどの身体動作とその意味機能の体系的研究」とあります。われわれとしては、この名称にこだわるつもりはありません。他の言い方で、ノンバーバル・コミュニケーション研究という学問分野がありますし、人によっては、身体言語(body language)の研究という言い方をする場合もあります。いずれにしても、それ自体はもはや音声ではない、純然たる身体動作でしかも概念化とコミュニケーションに役割を果たす働きの研究が問題なのです。
 さて、従来はこれらの三つの部門は別箇に研究されてきました。それぞれの知見が統合されることはありませんでした。しかし、<言語>の存在論を明らかにするには、言語学的部門の並立に起因する、ばらばらにされた言語イメージを一つの言語像へと統合することが必要です*。
*ロイ・ハリスは、従来の言語探究が踏まえる<分離主義> (segregationalism) が理論として誤りであることの論証を通じて新たに言語への<統合主義的アプローチ>(Integrational approach)を提唱している。ここで言及する<統合>は字義的な意味ではロイ・ハリスの言う<統合>にそのまま重なるものではないし、彼が言語音にかんして統合的アプローチを主張していないのは、その立場の不徹底を示すものではなかろうか。統合主義的アプローチについては、R. Harris, (1998), Introduction to Integrational Linguistics, Pergamon を参照。
 ノンバーバル・コミュニケーション研究ないし身体言語の研究としての動作学を本来の<言語>の研究に統合するというのは奇妙だと思われるかもしれません。しかしこの印象は誤りです。なぜなら、音声を産出する働きは身体の運動として実現するほかないからです。発声そのものが身体運動なのです。このかぎりで、身体の動きが<言語音>の構成に内的に関与しているはずです。
 この点が見てとりやすい言語現象は、言語音の<表情性>でしょう。言語音はかならず表情をおびています。例えば、笑う調子で言われた発言は、所産としての音声だけで完結するわけではありません。笑うときの顔の表情(例えば、<顔をくしゃくしゃにする>)や、姿勢(例えば、<腹をよじって笑う>)が、産出された言語音のいわば背後に展開されている点を看過すべきではないでしょう。(ただし、この「背後に展開されている」というのは仕方なしに用いた表現です。事実は言語音に<背後>などありません。一つの身体運動として統合された<動き>、それが具体的な言語音なのです。)
 ここに<分離>をもちこむのはあくまでも(言語の研究を容易ならしめるための)便宜の問題に過ぎないことを銘記したいと思います。この点を忘れて分離を言語の存在論に持ち込むとき、言語は死に絶えるでしょう。
 言語音の構造にふさわしい表記として、例えば、{ポッポ運動}-〔ポッポ-パラ言語要素〕-/ポッポ/ のような案が考えられます。この-(ハイフン)は言語音を構成する三つの成分の統合を意味します。
 しかしこれはいかにも煩わしいやり方です。われわれは、統合された言語音の表記として、♪ポッポ♪ を提案したいと思います。繰り返しになりますが、従来の正統的言語学が用いる表記法/ポッポ/が単に音素の表記に過ぎないのに対して、♪ポッポ♪は統合体としての単一な言語音を表すわけです。
 統合的アプローチは言語探究にとって必要不可欠ですが、しかし、何らかの<分離>を持ち込むことなしに言語を観察し調べることなど可能でしょうか。そうは思えません。結論として言うなら、このディレンマを言語探究はどこまでも持ちこたえなくてはならないのです。<言語学>はa disciplineとしての(不定冠詞に注意)学問にはなり得ないと観念すべきでしょう。
 ソシュール言語学における<ラング>は<パロール>から切断されることで概念としての成立を保証されたと(誤って)信じられてきました。しかし統合主義から見ると、ここに持ち込まれた<分離>がつねに未完了なままであるという力動性に理論的に有意な意義があります。統合主義的アプローチのもとで初めて、個別的なパロールがラングの体系性に効果を及ぼすという<交錯>chiasmを検討することがようやく可能となるからです。 (つづく)