言語の実像を作り直す (5)

namdoog2007-05-02

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 ここまでの観察をまとめましょう。言語音の生成は、知覚のさなかからその沈黙をやぶって音声が溢れ出すという事態だ、と言いうるでしょう。言語音はあたかも知覚項をなぞりつつその内容を確証するために創られたように思われます。ここにも記号系の<再帰的動き>――言語音による知覚項のなぞり――を指摘できます。喩えて言うなら、感覚的メディアを使用して描かれた知覚項のうえに言語的メディアの薄紙をのせ、その上から問題の鳥類をその形相のとおりに描きだしたわけです。
 「知覚項をなぞる」働きは、なぞられるモノを単に再現することではありません。(その意味では、上述の比喩はあまり適切とは言えませんね。)その働きは、そのモノを新たに創造することを必ず伴っています。したがって、<作り直すこと>という言い方のほうが適切かもしれません。しかし、あえて「なぞる」と言ったのには理由があります。作り直しとは、作り直されるモノをまったくの別モノに捏造するわけではないからです。それは、作り直される元のモノをいっそう明らかにする働きでもあるからです。
 言語の本質的な<功徳>(くどく)というと変な言い方になりますが、横文字だとヴァーチュ(virtueすなわち長所であり効能)は何でしょうか。つまり言語の働きの真髄とは何なのでしょうか。それは黙示的なものを赤裸々にすること――つまり明示化(manifestation)することにほかなりません。言語とは、基本的に明示化のための人為的仕掛けである、と言えるでしょう。
 言うまでもなく、言語音の離散的(discrete)構造が明示化の主たる動因となっています。言語の働きが他の表現と著しく異なる特色は、要素的なものを析出しそれらを結合して事態の表現を形成する働きにあります。
 このヴァーチュからただちに抽出される二義的な言語の働きは、言語的概念の共同性ということです。私が<鳩>という言語的概念を制作したとすると、それは私が属する言語共同体の他のメンバーと共有する概念でなくてはなりません。(反対から考えると分かると思いますが、<鳩>なる私製の概念を原理的に他者が理解できないとすると、それをそもそも<概念>とは呼び得ないでしょう。)
 他の言い方をすると、言語的概念はその明示性のうちに伝染性をはらんでいるのです。言語は振る舞いとして他者に模倣され広い範囲に伝染し伝わります。この伝染力の源泉がやはり言語音の離散的構造にあるのは言うまでもないことです。(言語音の共同性に関しては、遺伝子の複製、ウィルスの伝染などとのアナロジーが成り立つと思われます。スペルベルの『表象の疫学』を参照。)
 音声言語でさえ伝染性があるのですが、文字はこの上なく強力な伝染力をそなえています。もちろんこれは<教育>から由来する力ですね。文字そのものの自発性に伝染力があるわけではありません。例えば関東出身の私の発声するある文と関西人の「同じ」文とは、とりわけパラ言語的な構造においてかなり違っています。伝染性というか共同性が微妙にずれているのです。しかし文字にはそうした<ずれ>がありません。(今直面しているのは、筆跡の問題とは別です。)この文字と制度、権力、国家などの問題群とは本質的つながりがありますが、当面、そうした問題には立ち入りません。言語音の構造に話を戻しましょう。

 われわれが強調したいのは、言語音が発揮する分節化の働きそのものではありません。この論点は従来から何度となく言われてきました。われわれが言いたいのは、この分節化の働きがむしろどこまでも稠密な(dense)辺縁から切り離されることがないという点なのです。このようにして、言語音の構造をどのように捉えるか、その表記法は何か、という問題が重大性を伴ってクローズアップされることになります。
 結論を先延ばししている印象を与えているとしたら申し訳ないことですが、そこへたどり着く前に今一度強調したい論点について、繰り返しをいとわず、言及しておきたいと思います。

 第一に、初発の言語音がどのような機能を有しているのか、それを明確に把握しておきましょう。なぜならば、世間では、語(words)というものは、現実の世界あるいは外界に存在する事物を何らかの仕方で指示するものである、という理解がまかり通っているからです。
 しかしわれわれはむしろ、この言語音が<鳩>という概念の言語化であるという点を強調したいと考えます。なぜなら、言語機能に関しては、語の指示ではなく語によるカテゴリー化(言語的概念化)のほうが優先すると考えるからです。例に戻って考えて見ましょう。/ポッポ/という言語音は知覚されたかぎりでのこの鳩(知覚項;le perçu)を概念の事例として例証しているのです。
 一般にこの種の記号機能において認められるのは、二つでセットをなす関係が単一な記号機能へ統合されるプロセスです。

①すなわち一面ではタイプとしてのカテゴリーがそのメンバーを包摂するという関係があります(カテゴリー化)。この関係を、知覚項に特定の種類のラベルを貼つるけることと言い表してもいいでしょう。

②もう一つの面として、この個別的な知覚項が問題の言語音に孕まれた概念内容を代表するという関係があります。すなわち、あるタイプの鳩(知覚項)が<鳩>というカテゴリーのラベルを指示するわけです。知覚項はこの関係において自己を提示することになるし、また事実上自らを当該カテゴリーの<典型>の地位につけることにもなります(準分節化*)。

*分節化が言語の記号機能の全般を覆うわけではないので、<準>という言い方をした。またこの<典型>は熟慮のうえで構想されたわけでもないし、他の知覚項との比較を通じて整えられたものでもない。知覚の主体は構成されたカテゴリーが自ずと尺度としての権能をもつことを疑うことなく受け止めているにすぎない。経験的カテゴリーには認知心理学(ロッシェ)が明らかにしたようにプロトタイプ性がそなわる。これは経験の積み重ねがもたらす効果であろう。しかしこの点で、初発の言語的カテゴリーにはプロトタイプ性の構造が明らかではない。第一回目のトークンとしての<言語音>については、それが可能にするカテゴリーに内的多様性が認められない。(そのかぎりでそれは数学的カテゴリーに似ている。)この種の同質的カテゴリーが大人のふつうに使用している内的異質性をそなえたカテゴリーへとどのように変容していくか、それは発達心理学などの分野で探究されるべき問題であろう。

 以上を一つの命題に要約しましょう。すなわち、<初発の言語音とはカテゴリーの典型を創出する仕草にほかならない>と。

 繰り返しになりますが、これは記号系の<再帰的動き>がトークンとしての鳩の知覚項をタイプの担い手として提示する仕草なのです。

 こうしてわれわれは、第一回目の言語音が生成する場に<例示>(exemplification)の機能を見出すことになります。グッドマンが指摘するように、<例示>は所有(possession)と指示(reference)との統一です。初めての言語音/ポッポ/ は確かに知覚項と属性を共有しているし、反対に、知覚項は言語音へと指し向けられています。<例示>という記号機能は記号系のこうした自己関係のことなのです。 (つづく)