という観念の生成について (5)

namdoog2007-10-28

<意味>を希求する心の傾向性

 ヘブライズムとヘレニズムの二つの古代に始まる精神世界において<しるし>すなわち記号という観念が誕生する経緯を垣間見ることが出来た。

 ヘブライズムにおいては、<しるし>は何よりも神の業や摂理を表意するものであった。その具体的形象には、虹や天体のような自然現象や人々に奇跡と受け止められた異常で不可思議な出来事から割礼という儀礼的慣習――その中心部分は生殖器への身体加工である――まで、じつに幅広い事象が含まれていた。それらがどんな記号のタイプなのかをあらためて検分するなら、そこに徴候やシンボル(象徴)や言語(=神の言葉)などが含まれているのがわかるだろう。

 これに対して、ヘレニズムにおける<しるし>はもっぱら病気の徴候ないし症状として誕生した。換言すれば、ヒポクラテス文書が体系的に記述しようとした記号の具体的形象は身体的状態という種類に限られていた。(正確を期して言うなら、ヒポクラテスが理解する徴候には環境の要素も含まれていた。これは特異な徴候観として記憶されなくてはならない。環境と生体を一対のものと見なすという、すぐれた見地だと評することができる。しかしいまこの問題には立ち入らない。)

 なるほど徴候という記号のタイプはどちらの伝統にも見いだされる。これは共通点のひとつに数えることも可能でる。ただし、同じ徴候といっても、ヘブライズムの場合、徴候=<しるし>はもっぱら<信仰>という精神性に関連していた。あるいは、<しるし>は<宗教>という文脈のうちではぐくまれた。

 ヒポクラテス文書が<しるし>の名のもとに収集し整理し体系化しようとするのは、上述のように身体的状態である。ここでは<しるし>は、<医術>という世俗的な実際的学問の文脈にそくして出現している。そこに特に宗教的意味あいはともなっていない。

 二つの伝統においていは、同じ<徴候>がこのような違った性格を呈している。したがって共通点は、いわば客体的なもののうちにではなく、主体的なもののうちに捜されるべきではないだろうか。

 パースペクティブの転換を果たしたとき、初めて、<しるし>という観念を生みだす共通の基盤がありありと浮き上がってくる。

 私見によれば、事象を<有意味なもの>として感受しようとする、心の傾向性を仮定する必要がある。これは人間性の一部にほかならない。(かつてフランスの現象学メルロ=ポンティが、「人間は意味を求めざるを得ないという刑罰に処せられている」という意味のことを述べたのが想い出される。)

 この仮定をしっかりと心にとどめながら、ふたたびヘブライズムとヘレニズムの二つの伝統における<しるし>という観念の成り立ちを振り返ってみよう。

 そもそも古代イスラエルの民はエジプトの支配下にあって奴隷として使役されていた。必ず救世主が現れ自分たちを隷属の縛めから解き放ってくれるという信仰が生まれたのは、彼らが置かれたこの苦難のためであった。彼らの信仰は現代人の信仰がしばしばそうであるように単に内面の問題ではなかった。それはありのままの<歴史>の問題だったのである。

 彼らにとって<歴史>とはイスラエルと他の諸国民にかかわる審判と救いの歴史である。洪水が地上のあらゆる生命を滅ぼしたとき、ノアの一家だけが神によって救われたのは、まさに神の業であった。滅びをもたらすのも神であり、生命を更新するものも神である。神の眼に見える業のそれぞれが、神意の<しるし>なのだ。

 天にかかる虹が神との契約の<しるし>であるという聖書の記述には、御伽噺のシーンのようなロマンティックな要素は微塵もない。むしろこの現実世界で苦難をなめている人々の絶望の深さと希望の切実さを読み取るべきだろう。

 何か自然現象や目に立つ天体の運きや歴史的事件がおこったとき、もしそれがイスラエルの民の生活と絶対的に切断されていたら、当然ながら彼らはそれらに対して<意味>を問うことはしなかっただろう――いや原理的に、そうはできなかっただろう。しかし彼らの生の営みがそれらの事象を巻き添えにするかぎり、彼らは事象の<意味>を問うことを余儀なくされる。いったいこれは神のどのようなおぼしめしなのか、と。いうまでもなく、彼らの信仰(信念の体系)は事象の意味を問うための制約のひとつである。逆にいえば、神の信仰がなければ、彼らは事象の意味を問うことをなし得ないはずである。

 <事象の意味を問う>ことは、信仰の文脈を離れても、精神史のうえで人間がつねにおこなってきた人間性の一部であり、根本的な心の傾向性である。

 これをもっともよく物語る事例は、<怪物>という存在性格を有する存在者である。英語のmonster(怪物)はラテン語のmonstrumを語源とするが、この語はmonere=warnという動詞から派生した名詞である。これには、<前兆>、<不思議なもの>、<神意のしるし>などの意味があった。医学用語では<奇形>をいい、道徳的な含意をこめて<極悪非道な人>を意味することもある。〔最近マスコミで、<モンスターペアレント>なる外来語?が使用されているのに気がついた。学校へ理不尽なクレームをつける親のことである。ちなみに英語には元来、moral monsterという正規の語がある。〕

 <怪物>とは、種(species)ないし標準的カテゴリーのメンバーから逸脱した異常な個体あるいは現象をいう。人々は怪物を恐れ忌みきらった。医学的意味での怪物をひそかに殺害する風習があったし、現代においても奇形児は胎児のうちに中絶されると信じる相当の根拠がある。(イラストはデューラーによる「シャム双生児」のスケッチ。)

 怪物について設定すべき本質的な問いはただひとつである。「なぜ人々はこのように重大な関心を怪物に対して寄せたのか、逆に言って、なぜ怪物をあるがままに受け入れることができなかったのか」と。

 ドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』に、脇役の一人としてグレゴーリイという男が登場する。子供が生まれたとき、ふつうは司祭が洗礼を授けるのだが、彼は頑なにそれを拒んだ。その子の指が6本だったからである。グレゴーリイは言う、「だってこいつは…竜でござんすからね」と。

 怪物が恐れられたのは、ある個体や現象を同一指定するための、必要にして十分な属性のセット(=「本質」)を<怪物>がそなえていなかったからである。もちろんここには同義反復が隠されている。それというのも、人は本質をもたない個体や現象を「怪物」と呼んだのだから。

 洗礼は加入儀礼(initiation)のひとつのやり方である。人は一人の例外もなくいわば二度生まれる。一度は生理的に動物として、二度目には人間――『カラマゾフの兄弟』の場合、ロシア正教共同体のメンバー――として。(我が国の伝統にも加入儀礼は存在しているが、いまは立ち入らない。)

 西洋中世に数々の動物誌が刊行されたことを歴史家が明らかにしている。それらをひもといてみると、じつに多様な種類の怪物たちが実在する動物として挿絵入りで記述されているのがわかる。たとえば、カンタブレ『万象論』(13世紀)には、一眼の巨人、竜、天馬、海の一角獣などが登場するし、メーゲンベルクの『自然の書』(1350年頃)には、双頭の人間、腕が6本ある人間、頭が犬の人間、翼のある人魚などが目白押しに出てくる。この種の動物誌の系譜は、デカルトに代表される合理主義が近代を制した「偉大な17世紀」直前まで続くのである。(怪物論を簡潔に紹介したすぐれた文章を、澁澤龍彦が『夢の宇宙誌』(美術出版社、1964)に収められた一文の注として執筆している。)

 怪物を目の前にしたとき、人は驚愕する。そして、これは何だろうと訊ねざるを得ない。その本質があいまいであるもの、それが怪物にほかならないからである。換言すれば、怪物はその<意味>の問いを人間に強いる認識論的存在者なのである。

 ところで、人間が現にあるように二つの目をそなえず一つの目しかなく、この程度の背格好ではなく、はるかに高い身長をそなえた生物であるような世界を想像することができる。そしてかつてカンタブレが記述した遠い異国の地がまさにそのような人間の住むところであると想像してみよう。さらにカンタブレ自身がそうした人間であると仮定したとき、彼が執筆する『万象論』には、われわれのような人間が「怪物」として記述されたに違いない。

 この反事実的仮想から、われわれは以下のようなメタ形而上学を導き出すことができる。すなわち、「本質」は絶対に不変でありかつ普遍でもあるという想定には理由がない。むしろ「本質」は一定の形而上学的機制によってひとつの所産として構成されるのである。(拙著『我、ものに遭う』新曜社、『いのちの遠近法』新曜社、などで詳しく論じたので参照を乞う。)

 このメタ形而上学的前提にから、次のような推論が可能となるだろう。たとえば、初めてカラスを目撃した人間にとって、その黒い体躯をもつ鳥類は、同一指定されカテゴリー化にとりこまれる以前に、たとえしばらくの間にせよ「怪物」という存在性格を呈するだろう。人間が初めて際会する存在者はさしあたり<怪物>として出現するのだ。この論点をあらゆる存在者に敷衍できる点に留意しなくてはならない。

 ここでわれわれの記述は円環状に首尾を遂げることになる。人間には、事象の意味を問うという抜き差しならない本性的傾向性があるのだ。ヘブライズムの伝統における<しるし>の生成を促がした傾向性やヘレニズムの伝統におけるものとも、これは同じものである。

 付け加えておくと、ヘレニズムの伝統における<しるし>が身体状態としての<徴候>であったことには充分な理由がある。病は人間に苦痛を与え、生存を脅かし、しばしば死に至らしめる。その意味を問う切実さにおいて、病気の<徴候>ほど切迫した問いを人につきつけるものはない。環境を構成するあらゆる要素が<しるし>として意味の問いをわれわれに放ってはいる。だが疾病の徴候は記号のこの存在論的機能において、まさに典型なのではなかろうか。(つづく)