という観念の生成について (6)

namdoog2007-11-01

<記号観念>の生成とプラクティス
 ここで「プラクティス」と呼んだものは、人間と環境との相互作用の一切である。もちろん環境にすでに他者が住んでいるかぎりにおいて、この相互作用が他者によって媒介されている点を忘れてはならない。環境に帰属するおのおのの要素にいわば他者の署名が記されているのであって、私たちの周囲に絶対的に純粋な自然を見つけようとしてもそれは徒労に終わるに違いない。
 古代文明の伝統のうちでどのように<しるし>という思念が育まれたかを見てきた。人間には、事象の意味を問うという抜き差しならない本性的傾向性がある。ヘブライズムの伝統ではこの傾向性が神の業と救済の<しるし>を現出させたのであり、ヘレニズムの伝統では人間の生死にかかわる疾病の<しるし>が体系的に探究されたのである。
 翻って考えてみると、宗教的文脈や医術的文脈――いずれも非世俗的・非日常的な文脈である――を離れて、一般に、人間が環境と交渉することが、すでに事象の意味を闡明し、そうすることで生の営みに資することを含意している。(ちなみに、「生に資する」とは、生物個体としての人間の環境への適応、個体の維持や種の保存などを意味する。)
 換言すれば、人間と環境とのかかわりにはいつでもいち早く<しるし>が介在しているのだ。それというのも、環境の要素の意味を人間は訊ねざるを得ないからである。<記号>とは、定義上、表意するところのもの(something that has meaning)だからである。
 記号の概念規定に話が及んだので、問題に多少のコメントを加えておく。古来、記号の定義として「記号とは、ほかの何かを代表する何かのことである」(something that stands for something else.“alquid stat pro aliquo”)という命題が信奉されてきた。これは<指示>に着目した定義であり、この種の記号思想を、記号への指示的アプローチ(referential approach)と呼ぶことができるだろう。これに鋭角的に対立するのが、上記の定義である。ここには<指示>という契機が見当たらない。これはむしろ事象のカテゴリー化(categorization)に着目した定義であり、それゆえこの種の記号思想を、記号へのカテゴリー的アプローチ(catogorical approach)と呼ぶのがいいだろう。
 一見して明らかなように、カテゴリー的アプローチのほうが指示的なそれより包括的である。指示へ言及することなしに記号の意味について語ることは十分に可能だからである。私見によれば、これら二つのアプローチは、確執を孕みながら、最終的にはカテゴリー的アプローチへ収斂してゆくはずである。
 一例をあげよう。獲物を追って森に分け入った未開の人がけものみちに何か動物の足跡らしきものを見出したとしよう。その形や大きさ、あるいは輪郭の保存のさまなどを観察したこの原始の人は、ここを通っていった動物の正体や大きさ、あるいは何時それがここを通ったのか、いまごろはどれほど遠くにいるのか…などのことをほとんど瞬時のうちに割り出すだろう。
 この足跡は記号のタイプとして何と呼べばいいだろうか。パースの分類に従えば、獣と足跡が因果関係で結合しているかぎり、これは<インデックス>である。あるいは、環境に現出した<徴候>と理解してもいいだろう。
 この種の知識には<動物学>と呼ぶに足る体系性はそなわっていない。また文字を持たない彼らはこの種の知識を<学問>として保有することも未経験者に教えることもできない。彼らの知識はマイケル・ポランニー(Michael Polanyi)のいう<暗黙知>(tacit knowing)であって、ほとんど言語化しえない経験知にとどまっている。それにもかかわらず、この知識を構成するのは歴とした<記号>であってそれ以外ではありえない。(非言語的知識ないし準言語的知識も記号システムであるという論点は重要である。)
 もっと卑近な例を考えてみよう。車が頻繁に通行している道路を渡るときに私はどのように振舞っているのか。まず私は左側からは車がこないのを確認する。ついで、右側から一台の車がかなりのスピードでこちらへ向かって来るのを知覚する。(念のため、今一度左側を注視してやはり車が来ないのを再確認するかもしれない。)もし道路を横切ろうとして歩み出せば、車に撥ねられてしまうかもしれない――私は、こうした近未来の仮想的事態を咄嗟のうちに「計算」して割り出す。その結果、私はその場所に踏みとどまり道を渡ろうとはしないだろう。
 従来の知覚論(心理学においても哲学においても)は知覚のダイナミズムを無視しがちであった。われわれが文献に見出すのは、多くが静止したパターンの知覚の研究に過ぎなかった。だがこの種の研究は架空の知覚を相手にしているに過ぎない。(いわゆる仮現運動ないしφ現象の知覚についての研究は長い歴史を持っている。また運動する物体の見えについての研究もある。あるいは<動体視力>という観念もある。だがこの種の研究は、ここで問題にしている、<存在と無>を巻き添えにする、時空次元の輻輳した知覚――自然な知覚――ではない。問題は特殊な知覚ではなく、ごくふつうの知覚なのである。)
 知覚の場は見えるものと同時に見えないものを巻き添えにしている。いや、事実上見えないものばかりか、原理的に見えないものさえその場には介在している。遠くに車の姿を知覚するとき、同時に近未来の時空における車とその背景が、現前する知覚のなかにいわば下絵のように潜在しているのだ。(筆者はこうした知覚の成り立ちを、<知覚の換喩的構造>と呼んできた。例えば、拙著『いのちの遠近法』(新曜社)、第Ⅲ章、を参照されたい。)
 これが、知覚が表意するものである、ということの真の意味である。換言すれば、知覚はそのまま記号(正確には記号システム)なのである。(記号のタイプとしてはやはり<徴候>と呼ぶのがふさわしい。) 
 結局のところ、記号とは、プラクティス(人間と環境との相互的交渉)が可能であるための必然的な制約である。ここでは、プラクティスの実用的文脈における記号の介在を二つの例に即して確かめた。文化史を顧みるとき、暗黙知の形態をとるこの種の記号機能の営みを人はできるかぎり洗練し体系化してゆく努力を惜しまなかったことが知られる。次回にはそうした事例をいくつか検討することを通じて、最終的に<記号>観念の生成の理由を明らかにしたい。(つづく)