という観念の生成について (7)

namdoog2007-11-08

 記号システムとしての<占い>
 記号とは、プラクティス(人間と環境との相互的交渉)が可能であるための必然的な制約である。人間は誰でも例外なく、他者とまじわり環境に適応するために記号機能の営みをおこなっている。
 記号機能が発揮されることは、当然のことながら、それがそのまま認識の働きに匹敵する。例えば、空がにわかに雲でおおわれ湿った風がふくならば、これを体感した人は意識的か否かを問わず<雨が降りそうだ>という推測を抱くだろう。その人は、気象現象の徴候をとらえてひとつの解釈を導いたのだ。
 この種の<認識>がポランニーのいう<暗黙知>であることを前回指摘したが、歴史が教えているように、人々はこの種の知識の形態をたえず洗練し体系化する努力を惜しまなかった。
 いまもなお、テレビでは占い師が権威ある者であるかのように見なされている。新聞や雑誌などの定期刊行物には、必ず占星術を初めとする各種の占いの記事を見つけることができる。もちろん文字通り占いのご託宣を信じる人は少なくなったかもしれない。多くの人は娯楽の一種として占いを楽しんでいるのかもしれない。にもかかわらず、人々の心中にはどこか占いを否定しきれない想念がわだかまっているのも事実なのである。この小さな文章は、現代人が占いを全否定できない、その理由を、記号学の見地から明らかにするだろう。
 占いはすでに古代メソポタミアの地で著しい発達を遂げていた。ティグリスとユーフラテス両河の流域地帯は世界最古の文明の発祥地であるとされている。<文明>(civilization)が成立する一つの表徴は、<文字>の成立である。最古の文字の一つである楔形文字はまさしくこの地に発祥したのだった。
 文字の発明と占いの発達とはおそらく深く関連するだろう。なぜなら、暗黙知とは言語による表現形態以前あるいは以外の知識の形態にほかならないからである。本質的に言語化されない知識は、これを記録し伝承することができない。しかし人間はこの不可能性の壁を打ち破ろうと懸命な努力を費やした。音声言語とは別種の言語、すなわち文字の発明である。文字は暗黙知を明示化するのに大きな役割を果たした。そのようにして知識の持ち主以外の第三者がそれに触れ習得することを容易にする。(これとは対照的に、ギリシアにおける占いは、例えば千里眼のように非言語的なイメージを用いることが多かった。)
 <占い>という推理の形式が成り立つためには――(厳密さを犠牲にしてあえて)記号で表現するなら――P⊃Qという論理式が構想されなくてはならない。換言すれば、この式は<占い>の記号論的条件なのである。
 これに加えて、<占い>が成り立つためには、ある現象をQという記号の形式で表現できなくてはならない。こうして占いの推論は次の形式をとることになる。
  Qである。ところが、P⊃Q、従ってP
 これはもちろん推論としては誤謬推理(fallacy)である。しかし後年パースが強調したように、われわれの知識の拡張は実際にこの種の推理におおはばに依存している。パースがこれを<アブダクション>ないし<仮設構成>と命名したことはよく知られている。
 古代メソポタミアにおける占いの種類の多様さには驚かされる。占星術、観相術、夢判断、内臓占い、油占いなど、古代人はさまざまな事象をそのまま何かしらを表意する<記号>として受けとめたのである。
 少し説明を加えよう。内臓占いとは、家畜の内臓の形や色で将来を占うというものである〔上図を参照〕。例えば、羊の左右の肺が明るい赤を呈しているなら、近く火事が起こる、という帰結が引き出される。また油占いとは、水に油を注いで水面にできた形でものごとを判断するというものである。
 別の文明から一例をあげると、古代シナの亀卜(きぼく)がある。亀の甲羅に錐で穴をあけ、そこに焼けた棒を差し込む。そのとき甲にひび割れが生じるが、その形状によって吉凶を占うというものである。殷代に栄えたが、後に周の時代に易に取って代わられた。亀卜は古代日本にも伝来し天皇家儀礼システムの要素としていまに継承されている。
 占いの記号システムを賦活する推理の形式が<アブダクション>であることを見た。現代の科学的推論にもこの種の形式は不可欠である。問題は、Pという仮設がどのような基礎付けをもつのか、どのようにしてその妥当性が保証されるのか、という点である。科学理論はすべて仮設に過ぎない、という言い方は間違いである。なぜなら、科学者はいつでも「最良の仮設」あるいは「正しい仮設」を探究する努力を惜しまないからである。仮設なら何でもあり式の相対主義はわれわれのとるところではない。
 科学理論ないし科学的仮設の場合、Pはさまざまな基準でその妥当性を担保されている。仮設の論理的整合性、他の重要ですでに確立した理論ないし仮設との整合性、反証例がないこと、逆に多くの証拠によって支持されていること、他の仮設より単純な構成をそなえること、などなど。しかし<仮設の正しさ>に関するワンセットの基準について、研究者の意見の一致はいまだに得られていない。
 占いの場合、その仮設は一見して荒唐無稽な印象を人に与えるかもしれない。しかしながら、P⊃Qという式における前件と後件のつながりは必ずしも恣意的だったわけではない。例えば、1)それが実際に過去に生じた出来事の記録を一般化したものである場合(いわば歴史的経験論)もあれば、2)前件と後件との(修辞的な意味での)観念連合に基づく場合もあった。つまり、前件と後件の言語表現がたがいに音声学的に結合(言語音の類似や対照性などによる)していたり、記号内容がやはり結合していたりする場合である。
 その他にも占いの推論を支えるさまざまな方略があった。ここで強調しておきたいのは、こうしたやり方において比較すると、占いと科学理論との間に認識の資格の上で絶対的な優劣はないという点である。あえて言うなら、<占い>もそれ自身のやり方で「合理的」なのである。
 従って、<占い>を知的システムとして作り上げてきた人間の営みを嗤う権利は誰にもないと言わなくてはならない。反対に、科学が単に科学として社会に受け入れられているというだけの理由でそれを信じるのは、占いを信じることに比較して、いっそう合理的な態度とは言えない。それは単なる科学主義というイデオロギーあるいは軽信の類に過ぎないからである。(もちろん、<占い>が文字通り合理的だとか、それを信じるべきだなどと言っているわけではない。)(つづく)