という観念の生成について (8)

namdoog2007-11-29

記号システムとしての<呪術>

 さまざまな伝統社会で呪術(magic)がおこなわれてきた。こう言うからといって、呪術は完全に過去形で語られるべきものではないし、いわゆる未開社会に固有なものでもない。呪術は現代社会にも形を変えて存続している。この事態を直視しない哲学思想ないし認識論は自己欺瞞のそしりを免れないだろう。
 哲学にとっての呪術の問題は、これまで理性(reason)の問題と解されてきた。言い換えるなら、この問題は、合理性(rationality)とは何か、それは文化に相対的なのか、そうではなく普遍的なものか、もし理性が普遍的だとすると、一見して不合理な呪術をどのように解釈したらいいのか…といった一連の問題だとされてきた。われわれは必ずしもこの見地に反対するものではない。しかし当面は別の方向で呪術を問題としたいと考えている。
 初期の研究者――レヴィ=ブリュル(Lévy-Bruhl, 1857-1939)とフレイザー(J. G. Frazer, 1854-1941)――は、呪術を<偽の科学>として特徴づけたと言ってよいだろう。
 レヴィ=ブリュルによれば、呪術を実践する人々は<融即律>と彼が名づける(近代人にとっては)非合理な思考を営んでいるに過ぎない。伝統的に<論理法則>と信じられてきた少数の命題がある。例えば、あるものはそのあるものに同じである、という命題は<同一律>と呼ばれた。 理性のひとかけらでもそなえた人間なら、あるものがそのものに同じであるということ――式で書けばA=A――を認めざるを得ないはずだ。ところが、未開人は自分が(人間でありながら同時に)金剛インコだという(トーテミズムの論理)。つまり彼はA≠A(融即律)をきまじめに信じていることになる。(もっとも教科書の記載によれば、レヴィ=ブリュルは晩年にかつての自分の理論を放棄したという。)
 フレイザーは、この種の理論とは異なり、未開人が近代人と異なる特別な思惟を営むとは考えなかった。彼らは単に推論の間違えを犯しているに過ぎない。フレイザーのポイントを理解するには、彼の呪術理論に最小限言及する必要があるだろう。
 彼によると、呪術一般を共感呪術(sympathetic magic)と特徴づけることができるという。共感呪術には類感呪術(homoeopathic magic)と感染呪術(contagious magic)のふたつの形態がある。
 前者は、<類似は類似を生む>あるいは<結果はその原因に似る>という原理にもとづく呪術である。例えば、アメリカの原住民は、砂、灰、粘土のようなものの上に人物の像を描いたり、ある物体をその人の身体と想定して、尖った棒切れでそれを突き刺したり、その他の方法でそれに害を加えることによって、それが表す実際の人物の上に同じ危害を加えることができると信じている。簡単に言えば、原住民は有効な因果関係と類似関係を混同しているのだ。
 後者は、かつてたがいに接触していたものは、物理的な接触がやんだ後までも、なお相互的作用を継続する、という信念にもとづく呪術である。
 例えば、古代ヒンドゥーでは黄疸の治療のために入念な儀式が執り行われた。ウコン類の根でつくった黄色の粥を病人の頭から足まで塗りつけて寝台に横たわらせ、黄色の糸で三羽の黄色の鳥を寝台の脚につなげる。そして病人に水をそそぎかけ、黄色の粥を洗い流してしまう。このようにして病気が鳥に移行することによって、黄疸が治るというのだ。ここに認められるのは、因果関係と単なる近接関係との混同に過ぎない。
 もっともこの例には類似関係も介在しているので、その意味では純粋な感染呪術とはいえない。単純で純粋な感染呪術としては、例えば、ある人物の身体の一部(例えば髪の毛)ないしその所有物に危害を加えることによって、本人に危害を加える効果を生む(と信じられた)技法を考えればよいだろう。
 彼らの呪術理論の見地は、<合理性>を近代文明人の<理性>を基準に了解しているかぎりにおいて、近代的合理主義(modern rationalism)と呼べるだろう。(もちろん、この<理性>がどんなものかについて、別途詳しく検討する必要がある。)この方向における、呪術(あるいは象徴表現一般)の分析をここでおこなうつもりはない。(ダン・スペルベルはこの種の問題を引き受けることから、人間学的探究を始めた。彼の『象徴表現とはなにか』(紀伊國屋書店)を参照。)
 われわれの呪術へのまなざしは、合理性の問題と無関係ではないものの、<理性の構造>そのものより、<理性の生成>およびこの事態と本質的に結びつく<記号の生成>という問題に大きな比重を置くものである。
 われわれにとっての基本の問いは、「呪術は合理性とどのように関係するか」あるいは「呪術はいかなる意味で合理的か」ではなくて、むしろ「呪術を合理的なものとして案出する人間精神の根本動機は何か」あるいは「呪術を生成する記号学的制約とは何か」である。
 古代文明における<しるし>という観念が、事象の意味を訊ねざるを得ないという人間存在の基底に横たわる傾向性がもたらしたものであることはすでに確認した。
 いったいどうして人間は事象の意味の問いを担わざるを得ないのだろうか。それについてもすでにわれわれは一つの答えを示唆した。世界に帰属しつつ生をまっとうするためには、いかに乏しいとはいえ、<意味>が人間には必要なのである。そのかぎりにおいて、人間は意味で自らの生命と身体を養っているのだ。
 同じことをいっそう生物学的な用語で言いすこともできる。人間が事象の意味を問わざるを得ないのは――そのようにして、<記号>でおのが住処を構築せざるを得ないのは――環境に適応し個体を保存し種の繁殖を企図せざるをえないからである、と。
 古代ヒンドゥーで実施された呪術は非合理かもしれないが医術である点に疑いはない。この複雑な儀礼的所作によって患者が治癒することが絶対にないとは誰にも断言できない。とりわけ精神疾患の場合には、呪術は有効な医術である可能性が高い(いま行われている種々の精神療法のうち、多少なりとも「呪術」でないものがあるだろうか!)
 フレイザーの例を見てみよう。ペルーのインディアンは、麦粒をまぜた脂肪で自分の嫌いな人や恐れる抱く者の像をつくり、その人物が通る道でその像を焼いた。「彼の魂を焼く」ためである。
 この事例に真の因果関係と類似関係とを混同する、ペルー人の理性の脆弱さを認めるのは、いわば「結果論」に過ぎない。この呪術にあまり効果がないことは多分そのとおりに違いない。しかしながら、ある事象の間に知覚される類似性がこの事象の振る舞いに実際に関係していない、とアプリオリに断言することはできない。アナロジー(類推)は時として有効な推論の方式であって、アナロジーを基礎とする仮設構成(abduction)は、科学の発見術(heuristics)として有益なことがしばしばある。
 例えば、ある科学史家によれば、ニュートン万有引力の概念を発見したのは、あの有名なリンゴの自然落下のアナロジーによるのであり、また湯川秀樹博士による中間子論発見過程には電磁場と光量子のアナロジーが働いていたという。
 言うまでもないが、パースが強調したように、演繹と帰納だけでは、人間の知識の体系、とりわけ科学を構築することはできない。これらと並んで<仮設構成>(hypothese)あるいは<アブダクション>が、知識拡張の方法ないし推論方式として不可欠なのである。(私見では、帰納アブダクションは一対の推論方式と見なすべきだろう。)この点で呪術と科学に何の違いもない。
 わたしたちの論点は、呪術が<しるし>を要請した人間精神の一つの発露である、ということである。したがって、呪術と科学技術とはある種の連続体をなすと見るべきだろう。後者をもたらしたのものが、事象に意味を求める人間本性の必然性だとするなら、呪術もまったく同じ必然性に領されているからだ。遺された問題は、当然ながら、呪術と科学技術の連続性と非連続性、たがいの差異と同一性とを周到に見透かすことである。
 しかしわれわれはこの課題をひとまず脇において、さらに<記号の生成>の根本的制約に考察を届かせなくてはならない。(つづく)