という観念の生成について (9)

namdoog2007-12-08

 人間の有限性――苦
 人間には、生来、世界に到来するあらゆる事象を<有意味なもの>として受容しようとする心の傾きがある。この心的な習慣が<記号>という観念の生成をうながす動因にほかならない。
 われわれは、古代文明における信仰や医術にその明らかな事例を確認することができたし、科学技術につながる呪術や占いにもやはりこの種の動因を認めた。しかし実をいうと、この種の心的な習慣は、日常の実際的な生活を構成する原理なのである。その種の原理を知的に洗練したものがむしろ呪術であり占いであった。あるいはヘブライズムの宗教性やヘレニズムにおける医術の底流をなすものも、この日常的・実際的な生の動向にほかならなかった。
 例えば道を横切るとき、左右を見て車が来ないかどうかを確かめる、もし左から車がこちらへ向ってくるのが目に入れば、いま道に足を踏み出して危険はないかどうかを無意識裡に推測し計算するだろう。この「計算」を可能にするのは、知覚された<運動状態にある自動車>であり、この知覚表現(le perçu)は、表意するものとして、いつでもすでに<記号>という存在性格を有している。
 人間はなぜ事象を有意味なものとして受容しようとするのだろうか。この問いに対してもすでにわれわれはおおまかだが正確な答を見出すことができたとおもう。環境に適応しながら自己を維持し種を存続させるためには、<記号>という概念を必然的に形成しなくてはならないという点を認めざるを得ない。換言すれば、存在するものを秩序あるもの=コスモスとして生きることによってしか、人間は生きることをなし得ないのだ。
 秩序あるものの帰属する地平をわれわれは<世界>と呼ぶ。すなわち、<記号>という観念の可能性の制約を求めて、われわれは、世界を有意味なものとして生きざるを得ないという人間性の制約を見いだしたのである。
 われわれが一つの重要な問いを忘れていることを指摘して議論の不備を難じる向きがあるかもしれない。すなわち「意味とは何か」という問いである。確かにこの問いを主題的に考察することにはまだ手をつけてはいなかった。しかしながら、この問いにこの場で深入りすることは議論をいたずらに紛糾させる恐れがある。(この問いに関心のある向きは、この問いをめぐり多方面から考察した論考『いのちの遠近法』(新曜社)を参照されたい。)
 この問いに関して一言だけ述べれば、ソシュール学派とその後継者としての構造主義者たちは、意味を全体論的記号システムの構造的特性として規定するかぎりにおいておおむね正しかったとわれわれは考える。なおこの見地が哲学的意味論における機能主義の見地につながる点を指摘しておこう。
 さて本来の問題に立ち帰ろう。人間が投げ込まれている上述の制約を何と呼ぶのがいいのだろうか。読者の念頭には、人間存在の<有限性>という想念がおのずと浮かぶかもしれない。無制約者はひとり全能の神(God)のみである。神ではない人間は制約を被った有限者たることを免れることができない。
 なるほどわれわれは、記号観念の生成を規制する原理が人間存在の有限性にあるという考えに同意せざるを得ない。ただし従来の哲学的用語法からすると、<有限者>という表現は<無限なる者>との対比が伴っている。無限なる者とは上述のように端的にいうなら<神>を意味している。だがこの種の思考方式をとることは、過剰な存在論をになう結果を伴う。われわれは一神教の信者であることなしに、<有限者>でありうるのではないだろうか。一神教の信仰を離れて<有限者>としての人間存在を概念把握する道はないものだろうか。実際、そうした概念把握がわれわれの伝統のなかにあったのである。
 じつは古代における東アジアに一神教の伝統とは別に人間にとって避けがたい限界状況としての生に真正面から向き合った思想があった。Godのような超越者への帰依を教条としないという意味では、これはまことに現実的な思想でもあった。それはほかでもない、仏教の人間観である。ここは仏教を概説する場所ではない。最小限必要な限りでただちに仏教的な<有限性>概念について考えよう。
 仏陀は人間の生が<苦>に満ちていると説いた。<苦>とはサンスクリット語でduhkだという。他にもpidaなどの言い方もあったが、後者は<逼悩>と漢訳されている。圧しひしがれるような圧迫による苦しみの意味である。いずれの語も肉体や精神が被る苦しみの日常的な感覚をいうふつうの単語らしい。<苦>の反対が<楽>だとすると、古代インド人は、この両者が一つの事態の表裏だと受け止めた。すなわち、<楽>はいつバランスを乱したり毀損されたりしないともかぎらない。そうした危機を孕んだものとしてはじめて<楽>は<楽>なのである。
 日本の諺に「楽あれば苦あり」という。つまり楽しいことがあれば、その後に苦しいことがある。楽なことばかり続くものではない、という人生の知恵である。仏教的な苦の観念にこれは多分に類似した認識だと言い得るだろう。しかしインド人の認識のほうがはるかに徹底している。なぜなら、<楽>が<苦>と背中合わせだということは、結局のところ、純粋に(あるいは絶対的に)<楽>といえる状態はありえないことを意味するからである。この論点を明確に打ち出したものが、仏教の「一切皆苦」の思想にほかならない。人生は要するに苦しみ以外のなにものでもないのだ。
 しかし<苦>についてはもう一歩進めて考察を深めなくてはならない。仏教の苦に関する教えの一つに<四苦>がある。(よく知られている「四苦八苦」という熟語は、元来、仏教の教理に由来する用語であった。)四つの苦しみとして、生病老死が数えられている。病や老いること、あるいは死が人間にとって苦痛であるのはよく理解できる。生きることも多くの苦しみに満ちているという意味では、誇張した言い方になるが、苦そのものだとも言いうる。しかし生きることの喜びもある。美しいものに接したり希望がかなったり、あるいは美食にありつくことは――たとえ永続するものではなくても――喜悦であり幸せではないだろうか。いったい<四苦>の真意とは、何であろうか。
 問題のこの局面で、<苦>に対応する現代語として<有限性>がふさわしいことがいっそう明瞭となる。有限性とは、人間の希望が必ずしもかなわないこと、いや多くの場合人間は幻滅の悲哀を避け得ないことをいう。有限性とは、何事かをなしうる力としての可能性(単なる論理的可能性などではない)が限定されているということなのである。
 これを平明に言い直せば、人生は人間の思い通りにはゆかないということである。 この視点からあらためて<四苦>を検討してみよう。わたしがこの世に生まれてきたことは――芥川龍之介の『河童』で戯画的に描かれているように――生まれてきた者の選択にはよらない。私の生の理由はどこにも見つかりそうもない。私の生は私の自由にはならないのだ。そして常日頃どんなに健康に留意しても、例外なく人間はいつかは病に斃れ死ぬほかはない。人間の死亡率は100%だと昔からきまっている。老いにしてもまったく同じである。若く見えることが自慢の熟年世代もやがて歯が抜け落ち目はかすみ腰が曲がることを避けるわけにはゆかない。若いお肌を保つという触れ込みの化粧水を30年も続けて使用したら、どんな女性にも皺やたるみが生じているはずだ。
 こうして、<生病老死>はいずれも人間の意のままにはならない制約である、という意味で<苦しみ>以外のものではない。これが人間の有限性(人間が有限者である)ということの意味する事態にほかならない。
 意のままにならない=苦を少しでも統御するために、人間は<意味>を分泌する動物になった。それと同時に、記号を仲立ちにして存在に秩序を招来することになった。この点にこそ、人間の悲哀と誇りのすべてがある。
 しかし意のままにならないという苦しみは、なぜ苦しみとして感受されるようになったのか。ヘブライズムでは「楽園追放」の神話でこの当然の疑問に応じている。人間の始祖が神の命に背いて知恵の実を食べたことによって、死(つまりは苦)が人間に到来したという。しかし徹底して実践的である東アジアの思想は、この種の神話的思弁には頓着しない。<苦>は人生の公理であり、公理に理由を求めるのは無意味である。その意味では東アジアの古代思想は冷徹なまで現実主義的であった。
 さて、こうして人間にとっての<世界>が生成した。グッドマンの言い方を借りると、人が<実在>と呼ぶのは、記号による工作物=ヴァージョンである。実在があるのか、それとも実在は単なる構築物なのか、という問いはポイントを外している。
 実在論は世界制作のひとつのヴァージョンである。また構成主義もそれの一つのヴァージョンである。そのかぎりで、実在論構成主義は真の対立をなすのではない。なぜなら、この対立は二次的な派生物だからである。むしろ、この二項対立を生みだす<記号主義>がわれわれの哲学――正確にいうと、メタ哲学――になるべきである。
 これが、<記号>観念の生成を訊ねて考察を重ねてきたわれわれが至りついた一つの帰結である。(ひとまず了)