記号系としての絵画の生成 (1)

namdoog2007-12-17

 メルロの遺作である珠玉の短編『眼と精神』、ふつうは絵画論として読まれているが、その実、彼の内部存在論をその構成主義的ダイナミズムにそくして明らかにした形而上学マニフェストでもある『眼と精神』――モダニズムに呪縛された読者には難解そのものに映るに違いないこの書物のあるくだりを読むことにしよう。それはたいして長くはない単にひとつのパラグラフにすぎない。文中に添えられた数字は注釈のための指標である。
 一連の注を読み進めることによって、<絵画>と人が呼ぶ記号系がどのようにしてこの世界に立ち上がってきたか、読者に了解されるよう注釈をほどこすことに意をもちいたいとおもう。それゆえ以下の記述を、<絵画の個体発生> (l’ontogénèse du tableau)という問題への筆者とメルロとの対話の産物と称しても不当ではないだろう。

 さて、この不思議な交換システム<1>が与えられた以上、絵画にまつわるあらゆる問題がこの交換システムにかかわることになる。これらの問題は身体の謎を例証してみせてくれ、また身体の謎がこれらの問題を正当化してくれる<2>。モノ(事物)と私の身体は同じ素材で仕立てられているのだから、身体の視覚の働きは何らかのしかたでモノのあいだで生じるに違いない<3>し、そのうえ、モノがそなえる顕かな可視性は、身体のうちの密かな可視性に重なり会っているに違いない<4>。こうして、セザンヌも「自然は内部にある」と言うのだ<5>。質・光・色彩・奥行きなどは、われわれの前に、つまり向こうにあるが、それというのも、われわれの身体のうちにそれらが反響を喚びおこし、われわれの身体がこれらのものを迎え入れるからなのだ。この内的等価物、すなわちモノが私のうちに引きおこす、これらのものの現前の肉体的方式<6>――今度はこの方式が、これもまた可視的な図像を引きおこさないはずはない<7>。ほかの人すべての眼差しは、この図像のうちに自分たちの世界観察を支えとなるモチーフを見つけることだろう<8>。まさにこの時、二乗された見えるもの<9>が現れる。言い換えれば、最初に見られたものの肉体となった本質<10>、その聖画像が出現するのだ。それは力弱くなった写しとか、まやかし、つまりもう一つの<モノ>ではない<11>。ラスコー洞窟に描かれた動物たちは、石灰石の隆起や裂け目がそこにあるのと同じようにそこにあるのではない。もちろん、それら動物は<他のところに>いるわけでもない<12>。それらが巧みに利用している岩のマッスの少し手前、少し奥のほうに、このマッスに支えられながら、動物たちはそのまわりに放射しており、手に摑めないそのロープ<13>を引きちぎることはない。私が眼差している絵が<どこに>あるかを言うのはなるほど骨がおれる。なぜというなら、私は絵をモノを見るようには見てはいないし、絵をその場所に固定してはいないからである。私の眼差しは、《存在》の光輪<14>のなかをさまようように絵のなかをさまよい、絵を見るというより、むしろ絵に従って、あるいは絵とともに見ているからである<15>。(M. Merleau-Ponty, L’Oeil et l’Esprit, Paris: Gallimard, 1964, pp.21-23.〔メルロ=ポンティ『眼と精神』〕)

<1> 「不思議な交換システム」とはもちろんメルロによる<本来的身体>(corps propre)ことであり、その定義である。ただ見過ごせないのは、初期の博士請求論文『知覚の現象学』で導入され頻繁に使用されたこの術語が、後期の短編でまったく姿を消していること、この術語のかわりに、無造作に<私の身体>(mon corps)という用語が一貫して使用されている事実である。これをどう解釈したらいいのだろうか。
 そもそも身体の人称性は――ひいてはいわゆる<意識>のそれは――言語的属性にほかならない。すなわち、人は一人称代名詞を再帰的に使用することを通じてまさしく<私>になるのである。<本来的身体>は言語の可能性の制約ではあっても、言語的概念化の機能を必ずしも具現してはない。メルロがしばしば身体性に基礎付けられた言語以前の概念空間に言及するとき、それを<人称以前>と形容したり、あるいは<本来的身体>に仮託される人称について、もっぱらそれを、明確な人称となる以前の一般性における人称、あるいは人称の境界条件としてのonと呼んだりした点を忘れるわけにはゆかない。
 ありうる解釈は次のようなものであろう。『眼と精神』では、『知覚の現象学』とは異なり、すでに言語を解する成人の身体だけに話を限っているのだ、と。
 思うに、この限定には正当な理由がある。実際、この短編に登場する多くの人物は画家であり、哲学者である。彼はゴッホジャコメッティセザンヌについて、またデカルトパスカルなどについて言及する。しかし逆にいって、幼児への言及は見当たらない。そして絵画表現に関する発達心理学的関心を示そうともしていない。幼児がクレヨンで紙になぐりがきしたデザインは絵なのだろうか――そうした問いはここでは問われることがないのだ。
 人類最古の最も若い絵の例として、ラスコーの洞窟に原始人が描いた動物の絵がひきあいにだされている。彼らは大人であることを誰が疑うだろうか。彼らの名は知られてはないが、しかしすでに彼らは、ゴッホセザンヌとならぶ絵画の巨匠といっていい表現者だったのである。
 以上を前置きとして、われわれはただちに問題の核心を明らかにしなくてはならない。第一に「不思議な交換システム」とは何か、そして第二に、この種の存在構造を生きる身体がどのようにして絵画の生成に与るというのだろうか。 (つづく)