記号系としての絵画の生成 (2)

namdoog2007-12-27

 絵画の生成に立ち会うために、私たちはさしあたり二つの問いを設けた。第一に<1>にいう「不思議な交換システム」とは何なのだろうか、そして<2>でメルロが請け合っているように、身体がこうした構造を生きることを通じて、どのようにして表現としての絵画が立ち上がるのだろうか。
 『知覚の現象学』以来、メルロは本来的身体(corps propre)をつねに「感覚すること」あるいは「感覚経験」(le sentir)に即して捉えてきた。(主知主義者や意識哲学にくみする論者たちがメルロに野卑な自然主義者という烙印を捺した最大の根拠はこの点にある。)
 感覚のプロトタイプとしてメルロが言及するのは<触覚>である。自分の軀の一部へ手を伸ばし指先でその箇所に触る。これはひとつの<感じること>ないし<感覚経験>である。私の手は肌のそこに触れて感じている。しかしこのパースペクティブはたちまち反転して、肌のその部位が指先の冷たさを感じることになる。今度は指と手は感じられる対象の位置に転落してしまうのだ。
 こうして、本来的身体の感覚経験は、つねに<感じる>-<感じられる>という両義性あるいは再帰性(反射性refléxivité)を具現しているのがわかる。こうして彼は、由緒ある形而上学の概念である<主体>を本来的身体に比定することになる。なぜなら古来、人々は<主体>が再帰性を具現すると見なしてきたからである。(例えば、デカルトによれば、<思惟>とは反省する働きである。あるいは、サルトルによれば、何かについての意識は同時に自己についての意識である、等。)
 こうして、何かしらメンタルな主体――それが<心>という平易な名、または<魂>という古風な名、あるいは<意識>というモダンな名のいずれで呼ばれたとしても――が立てられた。この種のいわばエーテル状の主体のかわりに、メルロは血肉をそなえた<身体>――もちろん単なる解剖学的身体ではないが――を<主体>の位置に据えたのである。この措置にこそ彼の身体性の哲学の革新性があった。
 しかし話はこれではまだ半分しかすんではいない。いやそう言うのも言い過ぎかもしれないほどである。なぜなら、後年、<可逆性>(réversibilité)として術語化されたこの身体性の構造を精確にどのように解釈するか――これが問題として遺されたからである。彼は主体の問題へ解決を差し出したというより、問題を逃げ場のない地点まで追い詰めたのである。 
 メルロの形而上学をいわば俯瞰すると、そのかなり単純な構成が浮き彫りになるだろう。(彼の体系はそんなに難解ではないとあえて言いたい。)この構成をその要点を掲げることで素描してみよう。まず、(1)『眼と精神』の用語でいうと、包括者としての<可視性>(visibilité)――この言い換えに、例えば<存在>l’Etreがある――が設定される。そして、(2)この包括者の自己限定としてあらゆる事態や事物が現象することが言明される。従って例えば、(3)<見るもの>と<見られるもの>とは本来一対をなすものなのだ。だからこそ、<見るもの>が<見られるもの>へと転換することができる(あるいはその逆)。この見地からみると、伝統的な<主体>と<客体>とは原理的に分断されてはいない。両者はそれらを包括する一者のうちで対立を解消され融和にもたらされるはずである。
 こうした構成を、個別的身体はいわば分有している。例えば、上にみた<感覚経験>の例においては、身体部位は全体としての身体に包括されていることになるだろう。あるいは、ひとつの個別的身体=主体とその客体とはそれらが帰属する環境に包括されているといわなくてはならない。そして最後に、普遍的位相において、実存と世界との関係にも同様の形而上学的関係すなわち可逆性を見出すことができるだろう。
 要約すると、可逆性は、身体そのものの可逆性/身体と対象との可逆性/世界と人間との可逆性のすべてをカバーしているのだ。
 しかしながら、この概念のヴァーチュつまり効力があまりにも強いということは、かえって<可逆性>という概念の無内容を物語っているのではないだろうか。これに似た事情が古典的な<絶対者>の概念に認められるのは明らかだろう。あるいは、この概念は、古代ギリシアのドラマにおいて、筋がもつれ登場人物が苦境に際会したとき突如出現して彼を救ってくれる<機械仕掛けの神>(Deus ex machina)ではないかと疑うむきがあるかもしれない。
 筆者の思うに、この疑いは杞憂に過ぎない。なぜなら、なるほど<可逆性>という概念は包括的だが、しかしその適用には厳密な制約がともなっているからである。その限りこれは<機械仕掛けの神>ではまったくない。(少なくとも)3つのレベルでこの概念が適用される場合、権利の問題として、各レベルにおける事態の総体を記号システムとして捉えこれを全体論的構造として記述できるはずだろう。
 この種の形而上学的記述のためには、人間科学(言語学、心理学、社会学、人類学など)と藝術を可能な限り媒介しなくてはならない。<可逆性>概念に具体性を付与しそれを限定するためである。実際、メルロは同時代の人間科学や藝術から学ぶことを終生やめることがなかった。
 むしろ、二つ目の問題指摘のほうがいっそう重大である。すなわち、可逆性は旧来の主体-客体の二項対立を前提することで意義を有するのではなかろうか。そうだとすると、後者を真に乗り越えることは原理的に不可能ではないのか。なぜなら、<可逆性>を持ち出すことは暗々裏に古めかしい主体概念、従ってまた古めかしい客体概念を言説に滑り込ませる羽目になるからである。
 上の例にもどってこの点を確かめてみよう。私が手を伸ばして軀のある部位に触れる、と次の瞬間には、軀のその部位に指先が感じとられる。最初の位相において、主体としての本来的身体(corps propre)は何かを対象として探索していた。能動的に探索するかぎりにおける本来的身体は主体(sujet)ではあっても対象(客体objet)ではない。 
 言い換えると、探索する身体は同時に主体でもあり客体でもある両義性を生きることはできないのだ。次の瞬間にこの関係は逆転する。すなわち、探りつつあった主体としての身体が今度は触れられるもの、すなわち対象となる。最初に触れられた身体部位が今度は能動的な主体の位置に立つからである。
 こうして、旧来の形而上学的枠組みを突破するために構想された<可逆性>という考え方が、実は旧来の枠組みを温存していることになる。この事情は他のレベルのそれぞれにおいても簡単に確認できるだろう。(メルロの概念に対するこの種の批判については次を参照。廣松渉・港道隆『メルロ=ポンティ岩波書店、1983.)
 筆者に言わせるなら、この批判はメルロのテクストが旧来の形而上学の問題を追い詰めたその意義を十分に尊重していないところからなされている。問題がしっかりと把握されたとき、同時に問題に対する解が暗示されていたのではないだろうか。その暗示をどのように明示化しうるのだろうか。前回に引用した『眼と精神』のくだりを理解するには、まずこの課題を――委曲を尽くすことができなくとも、少なくとも問題の核心において犀利に――果たしておかなくてはならない。 (つづく)