記号系としての絵画の生成 (3)

namdoog2008-01-14

<関係>としての可逆性
 <可逆性>という観念が主客の二元性を「前提している」がゆえに、旧来の形而上学を克服しえていない、という批判には、たしかにもっともらしい側面がある。なるほど、ある特定の観念を差し出すとき、それが別の観念を前提していることがしばしばある。それにしても、批判は当たっているのだろうか。この点をもっと注意深く考えてみよう。
 「前提の論理」(logic of presupposition)は必ずしも単純ではないが、ここでは<前提>をさしあたり次のように理解しておく。(理論的言説をなすとき、人はしばしば「前提」を口にするが、その内容はじつに多義的で曖昧である。ある経済学者が<必要条件>のことをしきりに「前提」と称していたのをラジオで聞いたことがある。)すなわち、ある発話の前提とは、それの真偽にかかわらずそこから導出しうる発話の含意のことである。有名な例をあげれば、「現在のフランス王は禿ている」という発話(1)は、「フランスには王がいる」(2)を前提している。しかし、この前提は明らかに真ではない。それゆえ、発話(1)を耳にした対話者は、「え、なに言っているの??」と当惑するに違いない。なぜなら、発話(1)は、その前提(2)が偽であるかぎりにおいて、意味をなさないからである。
 この種の「前提」を演繹的推論における「前提」から明確に区別しなくてはならない。ふつうの命題論理で、A⊃Bであるとき、つまり命題Aが命題Bを実質的に含意するとき、この含意は<演繹>という推論形式において「必然的」である。Aはふつうに「前提」、Bは「帰結」と呼ばれる。しかし、上で規定した意味で、命題Bが命題Aを<前提している>ことにはならない。
 極端な場合、Aが矛盾した命題なら、そこからはつねにBが必然的に導かれる。このかぎりにおいて、<前提>の間違った理解にもとづく言い方だと、あらゆる観念は矛盾命題を「前提する」ことになってしまうだろう。換言すれば、どんな観念も非合理な命題を前提とするというわけだ。これは明らかに奇妙なロジックである。
 本題に帰ろう。果たして、<可逆性>は主体-客体図式をどのような意味で「前提」しているのだろうか。可逆性とは、メルロによれば、主体であるものが客体へとなりかわること(あるいは、その逆)をいう。それゆえ、確かに問題の図式が前提されていると言えるだろう。すなわち、<可逆性>とは、主体あるいは客体という存在様態が先取されてはじめて意味をなす観念なのである。
 しかしながら、<可逆性>という観念は<主体-客体図式>の帰結ではありえない。言い換えるなら、この図式が必然的に問題の観念を含意するわけではないのである。
 以上から、次の二点を指摘できるだろう。
 第一に、<可逆性>という構想(conception)はまさにメルロのオリジナルな思想がもたらした形而上学的概念であるということ。これについてこれ以上詳説の必要はないだろう。
 第二に、<可逆性>が問題の図式を「前提する」ことは(確かに前提している)、このオリジナルな概念=<可逆性>の破綻を意味するものではまったくない、ということ。「前提」という事態は単に、複数の観念をセットにして把握することを要請しているに過ぎない。ではこの観念系はどういう構造をなしているのだろうか。
 1)まず、『知覚の現象学』以来使用されてきた<本来的身体>(corps propre)という概念が『眼と精神』ではあからさまに登場しないテクスト上の事実に注目したい。そのかわりに、<私の身体>(mon corps)という術語が遣われている。先に指摘したように、画家を論じる以上、彼の身体はすでに人称性を具現している。ゴッホは「彼の」身体を生きるほかはない――たとえ、人称化された身体がどこまでも非人称的身体性とのかかわりを絶たないとしても、である。
 この点にもましていっそう重大なのは、<私の身体>を垂直に貫くものとしての<肉>(chair)という術語があからさまに登場していることだろう。<私の身体>が環境あるいは環世界(Umwelt)や他者とのいわば水平的交渉のうちにあるのに対して、人称化以前の<肉>は個々の身体をいわば垂直に貫くことによって、主体と客体の対立を超えつつそれを包括する。
 冒頭に引用した『眼と精神』の<3>の部分には、「モノ(事物)と私の身体は同じ素材で仕立てられている」とある。モノは客体(対象)という存在様態、私の身体は主体(主観)という存在様態をとるのだが、どちらも「同じ素材」すなわち<肉>からできている、というのである。
 この<肉>は唯物論者のいう<物質>ではないし、古典的形而上学者のいう<質料>そのままでもない。過剰な解釈ではないかとの謗りを怖れずに言えば(実際に筆者はこれが過剰な解釈とは考えていない)、この<肉>とは、個々の身体――それぞれの知覚=運動系――の生命活動を垂直的につらぬく、包括者としての<生命>(la Vie)である。
 初期から中期を通じて、メルロは身体と環世界――人間にとってこれはいつでもすでに<世界>である――との「水平的」交渉を詳細に検討してきたと言えるなら、後期のメルロは、<垂直>という次元の発見によって自らの形而上学を新たな境地へ押し出したと言えるだろう。補遺として刊行された「研究ノート」にはこうある。「新しいタイプの理解可能性(あるがままの世界と<存在>による――「垂直的」であって水平的ではないような――理解可能性を創りだすことが大事である。」(Notes de travail, Novembre,1960, dans Le Visible et l’Invisible, p.322, Paris: Gallimard, 1964.)実際、このノートには<垂直性>への言及があちこちに見られる。一箇所だけ引用してみよう。

垂直の<存在>(l’Être vertical)を再発見したとき明らかになるような、見える世界と見えない世界とが――ふたつがたがいに侵食することによって――単一なものとなるという点に、いわゆる『身心問題』の解決がある。(Notes de travail, Janvier 1960, ibid, pp.286-7.)

 <肉>は本来的身体あるいは私の身体が生命を営むための究極的制約である。私は誕生し成長し知覚し運動し老いそして死ぬべきものである。私の身体は、歴史的存在者としてある時点で生まれある時点で死んでゆくが、世界の肉は、私の身体(これも肉からなっている)のこうした変容を可能にするおおいなる生命にほかならない。言うまでもなく、私の身体とのかかわりで<肉>と呼ばれたものは、世界とのかかわりでは垂直の<存在>という名を帯することになる。
 2)水平性を可能にするのは存在の垂直性にほかならない。二つの次元の交差するところにまさしく<可逆性>がリアルなものとして実現する。可逆性とは<関係>である。数学の用語をかりて<可逆性>は<関数>だとしてもいい。(関数について語るのだから、メルロの形而上学は、少なくとも第2階の論理を必要とするだろう。)
 関係づけられるものが与えられて後、単に派生的にこの種の関係が生じるのではない。この関係は初次的(primary)である。したがって、メルロ批判者の誤りは、関係する項(具体的には、主体と客体)が存在しなくては、それらの間の関係が存立し得ないと即断したところにある。そうではなく、<可逆性>という概念が<主体>と<客体>を二次的なカテゴリーとして可能にするのである。(以上の形而上学的構想は、カッシーラーが「実体から関数へ」として語ったパラダイム転換と軌を一にしている。)
 メルロの構想はけっして孤立したものではなかった。われわれは、重要な論点と趣意をメルロと同じくする思想の営みを、ヴァイツゼッカーの「医学的人間学」に見いだすのである。(つづく)