記号系としての絵画の生成 (4)

namdoog2008-01-27

ヴァイツゼッカーの医学的人間学
 メルロ=ポンティ形而上学がゆたかで煌びやかな比喩で彩られていることは否みがたい。ある読者はこの比喩の過剰に当惑するが、別の読者には、これらが字義性には還元しえない必然的比喩のように映る。
 この種のアンビバレントな書物にとって、ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカー(Viktor von Weizsacker, 1886-1957)の医学的人間学は、メルロを解読するための単なる参考書の域をはるかに越えている。それというのも、二人の思想家の言説はさまざまに共鳴をかなでているからである。メルロは1908年に生まれ1961年に没しているから、知的な意味で同時代人だといえよう。もちろんヴァイツゼッカーのほうが学徒として先輩にあたる。二人の間に著作を通じて影響関係があったかどうかという点は未確認である。ただ下記のように、ヴァイツゼッカー現象学に影響された医学思想家であることは周知の事実だから、メルロの名を知らないで終わったはずはないと思える。(ちなみに、このヴァイツゼッカーが政治家やノーベル賞受賞の物理学者などを出した名家の一員であることはよく知られた事実だろう。)
 ヴァイツゼッカーの翻訳は4冊あるようだが、筆者の参照できたのは、『ゲシュタルトクライス―知覚と運動の人間学』(木村敏・:浜中淑彦訳、みすず書房、1988)と『病因論研究―心身相関の医学』(木村敏・大原貢訳、講談社、1994)である。
 ちなみに訳者の一人、精神医学の木村敏ヴァイツゼッカーの絶大な影響の下に独自な人間学を打ち出したことで知られている。ここでは木村の多数の著書のうち『心の病理を考える』(岩波新書、1994)を参考にしながら、筆者の観点からヴァイツゼッカーメルロ=ポンティの比較をおこなってみたい。
 木村はヴァイツゼッカーの業績を次のように要約している。

 心と身体の関係を医学的に探究する「心身医学」(psychosomatische Medizin)を創始したのは、20世紀前半にドイツで活躍した神経科医ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカー(Viktor von Weizsacker, 1886-1957)である。彼は、従来の自然科学的医学が身体という物質の客観的研究に終始していたのを批判し、心の重要な特性である「主観性」(Subjektivitat)を医学に導入する必要を力説した。そのための具体的な方法として彼が実践したのは、フロイト神経症の治療法として開発した精神分析を、身体医学にも適用するという試みだった。心と身体の関係についての彼の考えは、これが両方とも、人間という生きものが「生きる」という根本的な働きの、それぞれに異なった側面にすぎない、とするものだった。このような考えから生み出されたのが、彼の「医学的人間学」(medizinische Anthropologie)である。
 ヴァイツゼッカーが主として考察の対象にしたのは、身体症状を主徴とする内科疾患だったが、彼の心身一元論的構想は、そのまま精神医学にも当てはまる。事実、ドイツ・フランスを中心とする現象学的・人間学的精神医学は、ヴァイツゼッカーの強い影響を受けて発展してきた。彼の学説は、現代の脳研究至上主義的で「心不在」の精神医学に対抗しうるもっとも有力な理論的根拠を提供してくれる。(木村敏

 ヴァイツゼッカーは、感覚生理学や運動生理学の研究と実験を通じて生物(生体)の構造を、書名にもなっている<ゲシュタルトクライス>(Gestaltkreis)と捉えた。しいて訳すなら「形態の円環」だろうか。従来の生理学では、生体の機構は「感覚器」と「効果器」あるいは「受入系」と「送出系」に分断されていた。しかしヴァイツゼッカーは、生体を二つの系が統合されて単一の機能をなす<主体>としたのである。この機能によって生体は環境とのあいだに「コヘレンツ」(相即)と彼の名づけた円環的関係を保つのである。
 この発想が基本的にユクスキュルの「機能環」と同じなのは明らかだろう。またこの単一の機能は、まさにメルロが身体性に確認したものともそのまま重なり合う。身体とは知覚=運動系にほかならない。
 ヴァイツゼッカーが独自なのは、生体の<主体>の理解の仕方にかかわっている。伝統的な哲学思想では、この概念は人間の場合には<意識>として内在化される。デカルト哲学に顕著なように、物質と精神とを二分した上で、身体=物体の内部に精神が宿るとするのである。内部に宿るこの特異な存在者が<主体>と称された。
 ユクスキュルは生物学に<主体>を導入する必要性を説いたが、その際、「生体は単なる機械ではない、その機械を操作する主体を必要とするのだ」という風な言い方をしている。この説明を字義的にうけとるとき、ユクスキュルの環世界論は旧弊な主体概念を超えていない、と揶揄されてもしかたない(実際にヴァイツゼッカーはそう批判している)。だがユクスキュルの譬えを文字通りにとってはいけないのだ。これは単に説明の便宜に過ぎないのだから。問題はこの主体の比喩を精確にはどのように解するかである。その解釈を敢行したのが、まさにヴァイツゼッカーであった。
 あらゆる生物がその環境とのインターフェースにおいて「主体的」なのだ。人間の場合、環境との境界面で身体が維持している相即関係そのものが「主体」であると言うべきである。約めて言うと、主体とは関係に他ならない。この点について木村の解説を引用しよう。

…人間も、環境に適応して生きていく必要がある。そしてこの適応とは、有機体が絶えず変化する環境との相即関係を通じて、環境との接点でみずからの主体/主観を維持し続けているということなのである。主体とか主観とかいわれるものは、個々の個体が独自に内面化している固有の世界の中心点なのではない。個体が個体として存続するために当の個体の主体はつねに個体の「外部」で、個体を取り巻く「非自己」的な環境との「あいだ」に成立していなくてはならない。(『心の病理を考える』、59頁)

 ここで木村が「あいだ」と名づけたものは、筆者の言い方では「関係」にひとしい。ただし、関係というモノがあるというのは不適切だろう。むしろ関係する=機能の発現がそのまま関係なのである。関係というタイプがあって関係する働きがトークンとして出現するというより、<関係すること>がそのまま<関係>だと言うべきである。
 現象学者としてのメルロにとって、<実体>ないし<実在>という概念より<現象>のほうが優先することは明らかだろう。一般に対象が存在する(現実に存在するという意味で「実在する」)ということは対象が現象することにほかならない。文法の用語を借りるなら、実名詞よりも動詞状名詞(働きをあらわす名詞)のほうが基本なのである。簡単にいうと、存在とは現象である。この論法を「関係」にも適用しなくてはならない。「関係」と称される普遍者が何らかの形で実在する(実念論(レアリズム)の見地)のではなくて、関係は機能として発動するかぎりで存在するに過ぎない(非実念論)。
 じつは、この見地には「生命」の二義性が関係している。ふつう人は簡単に「生命」という言葉を口にするが、その二義性を自覚することはまれである。これを明確にしたのもまたヴァイツゼッカーであり、この論点は、<関係としての主体>というキーコンセプトをいわば基礎づけている。そしてまた、この論点は、メルロの<水平的存在>と<垂直的存在>という比喩で言わんとしたものに直接関連する。(ちなみに、「水平的存在」は筆者の用語であってメルロのものではない。ただこう名づけざるを得ない人間の存在の様態を彼は雄弁に語っている。すなわち、個々の<本来的身体>は環境や他者と絶えず相互的な交渉のうちにある。むしろこの<相互的交渉>という働きの発現がただちに存在者としての<本来的身体>なのである。他方、「垂直的存在」はメルロ固有の用語である。)
 次にこの論点を検討することにしたい。     (つづく)