記号系としての絵画の生成 (5)

namdoog2008-02-06

<生命>の二義性と存在論
 ヴァイツゼッカーゲシュタルトクライス』の序は本書の根本思想をきわめて簡潔な言葉で述べた感銘深い文章である。
 一例をあげれば、生命研究について彼はこう述べている。「生命に関するいかなる学問の始まりも、生命それ自体の始まりではない。むしろ学問というものは、問うということの目覚めと共に、生命のまっただなかで始まったものなのである。」
 詳説している暇はないが、ここには、生命がすでに認識の働きにほかならないこと、学問とは生命機能の一つの実現であること、認識は生命の外部に立ち得ないことなどが、平易で確乎とした口調で表明されている。
上の引用の直後に<生命>の二義性という思想が静かな口調で実際は揚言されているのである。

生命それ自体は決して死なない。死ぬのはただ、個々の生きものだけである。個体の死は、生命を区分し、更新する。死ぬということは転化を可能にするという意味をもっている。死は生の反対ではなくて、生殖および出生に対立するものである。出生と死とはあたかも生命の表裏両面といった関係にあるのであって、論理的に互いに排除しあう反対命題ではない。生命とは出生と死である Leben ist: Geburt und Tod。(みすず書房版、pp.3-4.)

 おのおのの個体は一定の時空規定に制約されつつ、生まれやがて死ぬことを免れない。<生命>の第一の意味は、この意味での<生>である。ものの本によると、古代ギリシア語はこの意味での生命すなわち特定の個体の有限の生命(生活)をビオス(bios)といった。(これが生物学=biologyの語源である。)この意味での生命を便宜的に<生命b>と記すことにする。
 だが第二に、個体の<生命>つまりその誕生と死を越えつつその働きを可能とする<生命>がある。やはり古代ギリシアではこれをゾーエー(zoē)と称した。(動物園=zooの語源。)奇妙な印象を与えるかもしれないが、個体の<死>を司るのもこの意味での<生命>にほかならない。この種の生命を<生命z>と書くことにしたい。
 われわれの地球はおよそ46億年前に誕生したといわれている。約35億年前の岩石を調べると、原始的な細菌の化石とおもえる「微化石」(微生物の化石)が発見されている。この微生物はかなり進化が進んだ時代の生命体と推定できるから、最初の生命の誕生は35億年より何億年も以前の出来事であったろう。最初の生物は原始の海のなかで生まれたらしい。以来、40億年の時間が経過した。その結果としてわれわれがいま見るような生命圏が成立したのである。
 生物は進化と分化を遂げつついまにいたったが、1)特定の種の個体の生死、2)特定の種そのものの発生と絶滅のふたつの位相のどちらにおいても、生命体ないし生物に生の機能を付与しつづけてきた、不死の生命いわば大文字の生命を考えることができる。すなわち<生命z>である。
 強調しておきたいのは、<生命>のこの二義性は理論的言説としての形而上学存在論にその対応物をもつという点である。
 <生命b>を個々の生命体と環境(環世界)とのいわば水平的機能と見なすことができるとするなら、<生命z>は個々の生命体の総体(すなわち種の総体)を垂直につらぬくラディカルな機能にほかならない。前者がギブソンの構想した生態心理学の研究テーマであり、メルロが検討した身体=主体の機能あるいは知覚=運動系としての身体の機能である点は見やすい道理である。後年のメルロが<垂直的存在>(l’Etre vertical)を強調することになったのは、<生命z>の存在論的対応物のありかを深く自覚したからに違いない。(ギブソンは経験科学者としてそこまで踏み込むことはしなかった。)
 さらに一般的にいえば(つまり、生命と無機物とをひっくるめた存在論に言説を絞り込めば)、われわれが眼の前にしている<現実>とそれを可能にする<根拠>(ラディカルなもの)としての<潜在性>を区別しなくてはならない。前者が<生命b>、後者が<生命z>に対応するのは言うまでもない。(ついでながら、ここでいう<潜在性>は単なる論理的可能性などではない。むしろ論理的な意味での可能性を可能にする根拠である。この問題については、例えばベルクソン形而上学入門』を参照。)
 生命の二義性と主体性
 生殖をつうじて世代から世代に継続されてゆく、個体の生命機能の根拠としての<生命z>は(個的生命の)<誕生>と対立する<死>からは離れている。言い換えれば、<生命z>そのものは不生不死であって、そのかぎりで個々の生命体を超越した生命の根拠なのである。 
 ヴァイツゼッカーは生命体と<生命z>との関係を「根拠関係」(Grundverhältnis)と呼んだ。読者として刮目すべき点は、第一に、この関係が主体を主体たらしめている「主体性」(Subjektivität)だという彼の洞察である。ということは、個々の生命体は<生命z>とかかわりを有するかぎりで生命としての機能を発揮できるということだ。
 彼によれば、主体性は生命体の内部に宿るなにか実体的な要素(魂、自我、その他)ではありえない。主体性は個々の身体の限界をつねにいつでも越えていわば環世界にひろがっている。いや、生命体と環世界とにインターフェイスがあるという可能性そのもの、つまりは両者の<関係>そのものなのである。
 <生命z>は、経験しうる世界に帰属する個々の生物や論理的構成としての生物種とは異なり、科学的認識の直接的対象にはなりえない。(あらゆる意味でそれが不可知だというのではないが。)また、<生命z>が生命体とのかかわりにおいて生命体に主体性をもたらす根拠であるかぎりで、生物の主体も科学的認識の直接的対象ではありえない。まさにこの意味で、ヴァイツゼッカーの提唱する<生命z>ならびに<主体性>は形而上学的概念なのである。
 読者が刮目すべき第二の論点は、メルロの形而上学ヴァイツゼッカーの<主体性>概念との比較にかかわっている。晩年のメルロは、繰り返すことになるが、個々の生命体と環境とのいわば「水平的」関係を基礎付ける<垂直的存在>のクローズアップに努めている。
 この確認に立ってわれわれは、「身体が主体である」という彼の根本的主張を次のように解するべきだろう。すなわち、個々の人間は<本来的身体>(corps propre)という存在様態をとって世界に帰属しているが、その営みが<主体>によってコントロールされているということ(つまり、身体が主体であるということ)は、身体と環境との水平軸に垂直軸が交差しその交点に火花が発するというダイナミックな出来事そのものなのである。世界のいたるところに発火するこの<交差>が第一次的なものである。もしそう言いたければ、その結果として<主体>が身体に宿るのである。主体や知覚=運動系としての身体は昔風の<実体>ではありえない。それはどこまでも第二次的なものとして、<関係>ないし<機能>の生起(occurrence;emerging)にすぎないのだ。 (つづく)