という観念の生成について (4)

namdoog2007-10-18

ヘレニズムの伝統 2
 占いと医術とは同じ源に発しているとされている。ギリシア神話では、どちらもアポロンの属性である。例えばプラトンは、『饗宴』で「アポロンが弓術、医術、占いを発見した」(197a)という旨のことを述べている。神アポロンの代理をこの俗世界でおこなうのが、古代ギリシアでは、iatrómantis(”doctor-seer”)であって、彼らは未来を予言し病気を治す技を持つと信じられていたのである。
 占いについては後でやや立ち入って述べるつもりであるが、ここで端的に指摘しておきたいのは、占いと医術という二つの実践=技術=理論が準同型の記号学的構造をそなえている、という点である。
 すなわち、占いは、目の前の<しるし>ないし<徴候>を捉えて、それを将来に起こる出来事を表意するものとして解釈する記号学的実践であるが、医術もこの点に変わりはない。
 繰り返すことになるが、ヒポクラテスが医術の記号学的実践をそれ以前のまじないないし呪術めいた民間医療から明確に区別したことが重要である。彼の著述とされている『神聖病について』(<神聖病>とは癲癇のことである)において、呪術は主として二つの面から厳しく批判されている。
 第一に、呪術は病気の超自然的要因を持ち出すが、医術はどこまでも自然(phýsis)と合理的原因(próphasis)を探究する。呪医にとっては、疾病は自然の因果性という水平面上のある点に、垂直的で超越的な平面から直接に干渉がおこなわれることによって惹き起されるものであった。ヒポクラテスはこれを明確に否定したのである。
 第二に、呪術に整合的な理論がないことが批判される。呪医がくりひろげる推論は不整合であってあちこちに論理的破綻がある。これに対して医術は厳密なtekmérion(証明)に基づく推理にしたがって営まれるというのである。(医術の理論が論理的な体系をなす、というこの思想が<哲学>の形成に影響を与えたとも言われている。)
 二つ目の論点についてはコメントが必要だろう。現代医学では、とくに近年、medicine based on evidence(証拠に基づく医学)が強調される。数値化され視覚化(映像化)されたデータを証拠とした厳密な診断が求められる。治療についても治験の厳密なデータに基づいた方針が選択されなくてはならないとされる。一言でいうと、医学は客観的厳密性をそなえた「科学」でなくてはならないというのだ。
 しかしこの理念には限界がある。患者が症状を医師に訴えて検査しても何ら「異常な」データが見出されない事例が珍しくはない。治療にしても、例えばある薬が処方されたとして、なぜそれが症状の改善に効果があるのか、分子レベルの機制が詳しく解明されていない事例もある。しかし実際にその薬は効くのだから、それでもかまわないわけだ。
 現代医学は確かにヒポクラテス的理念が生み出したものである。にもかかわらず、医学は――まじないや呪術とは異なるとはいえ――事実上、厳密科学ではないし、これからもそうでありえないだろう。問題は、呪術的医術とヒポクラテス的医術とが一面で際立った相違を示しながら、記号学的実践としてはどこまでも連続性を示している点をどのように記号学的に理論化すべきか、という点にある。(この問いに対しては、レヴィ=ストロース構造主義から多大の示唆が得られるだろう。)
 さて本題に戻ろう。形式的推論と記号を使用する可能性は、ギリシア医術と占いという<聖なる記号学>を分離するひとつの特徴であるが、そのほかにも二者を区別する特徴がある。それは、ヒポクラテスの医術と呪術において<視覚>が演じる役割の違いである。
 視覚は呪術や呪術的医術にとって根本的な役割を演じる。神アポロンは一瞥しただけですべてを見て取る能力をもつ。また予言者は「第二の視覚」によって肉眼では不可視のものを見透かすことができる。それゆえ予言者は必ずしも肉眼を持つことを要さない。いや、肉眼が誤ったイメージを与えることさえある。予言者がしばしば盲目なのはこのためである。読者はここで、我が国で伝統的に盲人がある種の異常な能力を持つという信念のことを想起するかもしれない。例えば、死者の霊が憑依するとされているイタコ(東北地方で口寄せをする巫女)は盲目である。また洋の東西・古今を問わず、<夢のお告げ>という考え方があるし、詩人が幻視者としてヴィジョンによって予言をおこなうという考え方もある。すなわち、呪術的記号認識は<視覚優位>なのである。
 これに対して、CHでは、視覚はおおはばに価値を減じることになった。疾病について知るためには、単に視覚で徴候を知るだけでは不十分であるという。医師は触覚でも聴覚でもさらに味覚でさえ徴候を捉えなくてはならない。この方法論はそのまま現代医学へ引き継がれている。医師は聴診器で心臓の拍動を聴き、お腹を触ったり押したりして異変がないかどうかを探ろうとする。
 ここであらためて、医術と呪術的医術ないし民間療法とをそれぞれが依拠する推論のタイプの点で比較してみよう。
 呪術は推論のタイプとしてアナロジー(類推)を重要視する。Sという徴候がDという病態と予後を表意することが分かっているとき、もしSに類似するS’が可視化されるなら、Dに類似したD’が帰結として引き出されることになる。
 これにひきかえ、ギリシア医術はアナロジーを批判し推論のタイプとしては<仮設構成>ないし<アブダクション>を前面に打ち出したのである。
 呪術がアナロジーを重んじるのはイオニアの哲学の影響と見なすことができる。イオニアの哲学者たちは客観的存在としての<自然>(physis) ないし森羅万象の<原理>( archē)を探究した。(例えば、ターレスが万物の元素は水である、と主張したことをよく知られている。)この意味で哲学は<自然学>(physiología;生理学の語源)であった。哲学の認識論は、ある個別的現象から自然そのものへ遡及することにあった。言い換えるなら、哲学的認識はアナロジーなのである。この場合、個別的現象は原理(アルケー)の見本と解することができる。
 他方、CHの著者たちはデータの意味を解釈するという営みを組織化した。この組織化にふさわしい推論のタイプは前述のようにアブダクションなのである。 
 彼らにとってデータは、目で視ることで一見して了解されるような見本ではない。データには理論的解釈をほどこす必要がある。言い換えるなら、データは指示の体系に結合される必要がある。
 こうして推論の過程(logismós)が必要となる。そしてこれは本質的に、アブダクション(仮設形成)である。個別の現象は何か一般的原理の事例として対象化される(hypothesized)。こうして、それ自体として意義を欠くhékaston(個別的現象)が記号(sēmeîon)として把握される。記号は一定の記号システムに帰属するかぎりで、そのシステムから意味を受け取るにすぎないのだ。
 これを図式化すれば、CHの著者たちが実践した推論は、「Q、ところがP⊃Q、それゆえP」という形式で表せるだろう。だが厳密に言うなら、これは単なる説明のための便宜的図式にすぎない。じつはQがQとして生成したときに、すでにQをQとして構成する記号システムがその機能を発動していたはずだからである。(アブダクション論はまた別途詳しく展開しなくてはならないが、いまは以上の指摘にとどめておく。)
 以上で、ヘレニズムの伝統における<しるし>の意義について、ひとまずその概略を述べたことにしたい。
 大きな問題が不明なまま残されている。ヘブライズムとヘレニズムの伝統がそれぞれ<しるし>という観念を生み出した経緯を見た。しかし二つの伝統における<しるし>の観念には、一見すると何の関係もないように見える。本当にそうなのだろうか。(つづく)