恣意性の神話・補遺――〈シリウス星の言語学〉を越えて

namdoog2009-01-13

(この文章は『総合人間学』に寄稿した論考のブログ・ヴァージョンである。)

 1                            
 ソシュールが『一般言語学講義』のなかで「恣意性」を「言語学の第一原理」として提起したことは人口に膾炙している。〈言語記号の恣意性〉という観念ほど誤解されがちなものはない。私見によれば、ソシュール自身すでにこの観念に関して誤解を犯し混乱に陥っていた。実際には〈恣意性〉についてたえず解釈を吟味する必要がある。
 かねて筆者も<恣意性>とある意味で似た考えを抱いてきた。人間は言語能力を獲得することを通じて〈文化〉の担い手となり〈自然〉において特異な地位を占めるに至ったこと、これは確かだと思える。だが筆者の立場は穏健な自然主義に依拠する点でソシュールの形相主義とは正面から対立する。
 <恣意性の原理>を論駁する議論を筆者はかつて日本記号学会大会で公にしたが(1994年)、この報告は翌年学会機関誌に論文として掲載され、後に著書に収められた(菅野盾樹「恣意性の神話」、『記号学研究』、15号、59−71頁;菅野盾樹『恣意性の神話』、勁草書房、1999、第一章)。ここでは筆者の議論をいっそう堅固なものとするためにバンヴェニストの議論に的を絞ることにしよう。
 言語記号に関して恣意性は二つの側面(アスペクト)をそなえている。まず、各々の言語記号を構成する二要素――〈記号表現〉(signifiant)ないし〈聴覚イメージ〉と〈記号内容〉(signifié)ないし〈概念〉――との間に自然な絆がない、ということ。第二にあらゆる言語記号からなるシステムあるいは〈ラング〉が各々の言語記号に先立つかぎりでそうした言語記号の成立には必然性がないということ。
 恣意性の第一の側面は、例えばある家畜をフランス語では/ムートン/と呼ぶが、しかし英語では/シィープ/と称して、これら二つの名がまったく似ていない点に例解されている。つまりウシ科ヤギ亜科のこの動物とその名とは必然的に結びつかないというわけだ。そのうえこの二つの語(言語記号)は一対一に対応しない。なぜなら/シィープ/は単にその動物を意味するのに、/ムートン/は羊とマトンつまり羊肉の両方を意味するからである。これはラングの分節化つまり言語記号の成立に必然性がないことを示している。
 恣意性の原理は自然主義的傾向に棹さすあらゆる言語探究に異議をつきつける。人間は言語能力を持つことによって〈文化〉を創出し〈自然〉から逸脱した生きもの、いわば自然の孤児になった――これが恣意性の原理のひとつの含意である。


 〈恣意性〉はいまや言語思想の「セントラルドグマ」の地位を獲得したが、そうなるまでに多くの議論や批判の的になってきた。数ある論文のうち最も重要視されているのは、バンヴェニストの論文「言語記号の性質」である(Emile Benveniste, ‘Nature du signe linguistique,’ ( Acta Linguistica, I, 1939) dans Problème de linguistique générale, I, Paris: Gallimard, 1966, pp.49-55. [『一般言語学の諸問題』(岸本通夫監訳)、みすず書房、1983、55-62頁])。
 ここで著者はソシュールの議論が致命的矛盾に陥っていること、また言語意識の事実に照らして「言語記号の構成要素である記号表現と記号内容の結びつきは必然的でしかない」ことを主張している。
 丸山圭三郎は著書『ソシュールの思想』(岩波書店、1983)でバンヴェニストのこの批判に検討を加え結果として新たに〈恣意性の原理〉を擁護している。以下では丸山の議論を批判することによって、バンヴェニストの批判が正鵠を射ていることを示そう。
 バンヴェニストの批判の要点を掲げることにする。バンヴェニストによれば、
 (1) ソシュールは語が事物の名であるという言語観(名称目録説)を否定して、代わりに、言語記号が〈概念〉と〈聴覚イメージ〉という、どちらも心的あるいは言語内的要因の統合体であるとした。
 (2)言語表現と言語内容との間には自然の絆がない、つまり両者のつながりは恣意的である。従って言語記号そのものも恣意的だとした。
 (3)ところで、(2)を裏付けるためにソシュールが提示する次の例解は(1)の主張と明らかに矛盾する。「…言語間の相違や異なる言語が存在するということそれ自体が、恣意性のよい証拠である。《bœuf》(牛)という記号内容は、国境のこちら側では、記号表現としてb-ö-fをもつが、向こう側ではo-k-sなのだ。」(Ferdinand de Saussure, Cours de linguistique générale, publié par Charles Bally et Albert Sechehaye, Paris:Payot, 1968, p.100. [ソシュール『一般言語学講義』(小林英夫訳)、岩波書店、1972、98頁。 訳には手を加えてある。])。ここでソシュールは(1)で否定した名称目録論者さながら、言語外の実在を理論に引き入れている。ここに議論の致命的矛盾がある。
 (4)私の言語意識の事実として、実際に言語記号の二つの要素の絆は必然的である。例えば〈bœuf〉なる概念は、私の意識内でつねにb-ö-fなる聴覚イメージと結合している。
 さて丸山は、「バンヴェニストの批判は、要約の(3)に引用したソシュールの不可解な例に関する限り百パーセント正しい」 と明言する(丸山圭三郎、前掲書、299頁)。だがソシュールの恣意性の原理自体が誤りとは言えないという。つまりこの例解――講義でソシュールが用いた唯一の例――が不適切だったにすぎない、それだけの話だというのだ。
 丸山のこのやり方には疑念が残る。ソシュールのこの例解がたまたま不適切だったのか。あるいは例解を試みること自体(例解の論理構成そのもの)が恣意性の原理と撞着するのではないのか。
 確かにバンヴェニストは(2)のような言い方をしている。もし(2)を単純にうけとると、言語記号の恣意性とは、言語記号を構成する要因つまり記号表現と記号内容との結びつきが偶然的であることに由来すると言っているようにみえる。だが本来のソシュール記号学の構想では話は逆なのだ。すなわち言語記号一般の恣意性が一次的に成立し、その後に各々の言語記号が恣意性という性格をおびるのである。この部面を説明するのはソシュール記号学の〈価値〉の概念である。丸山もバンヴェニスト論駁のためにこの価値論に依拠している。


 ソシュールによれば、言語記号のシステムとしてのラングの内部構成は、言語外の実在ないし自然の制約を免れている。これが第一次的意味での「恣意性」である(丸山のいう「価値の恣意性」、同書、307頁)。
 ラングの要素たる言語記号に関して、それが内包する観念に音響の断片を「呼び寄せる選択は完全に恣意的である。…そうでないなら、価値はその性格のうちから何かを失うだろう。なぜならそれは外部から課された要素を含むことになるからである」(Ferdinand de Saussure, ibid. p.157. [ソシュール、同書、一五九頁])。
 バンヴェニストの批判はまさにこの価値論に照準している。彼の慧眼はまたしても(3)で指摘された矛盾を見逃さない。「実際、ソシュールは《観念》と言いながらも、あいかわらず実在する対象(objet reel )の表象を考え、表意された事物(chose)に記号を結びつける絆の、明らかに必然的でない無動機な(immotivé)性格を考えている」のであり、ここに著しい「混乱」(confusion) がある(Benveniste, op.cit. p.54. [『一般言語学の諸問題』、60頁])。
 ソシュール=丸山にはこの批判が言いがかりのように聞こえるかもしれない。「混乱」などしていないのにしているという決めつけは理不尽ではなかろうか。
 しかしながら、ラングの内部構成が自然に制約されていない(価値論)という意味における「恣意性」が現実的だという論証をソシュールは無視している。このかぎりで「恣意性」は論証を欠いた教条(ドクマ)に過ぎない。しかも論証らしきものを試みた途端、バンヴェニストが指摘したように、ソシュールは矛盾に陥ってしまうのだ。
 バンヴェニストはこの「混乱」に時代思潮の影響を見た。それは十九世紀末の歴史的・相対主義的思索の特徴にほかならない。〈比較〉による理解という方法がこうした思索を導いていた。丸山の同意した論点(3)がふたたび浮上することになる。ソシュールは、丸山の指摘するように、同じ動物がある国ではbœuf、他の国ではOchsと呼ばれることを根拠に言語記号が「恣意的」だと主張したわけではない。しかしラング一般の内的構成の「恣意性」を考察するとき、ソシュールは所与のラングの〈比較〉に依拠せざるを得なかった。理由は明らかだろう。純粋な「可能態としてのラング」または「ラング一般」なる存在者はどこまでも不可視だからである。


 バンヴェニストは、さきの要点(4)のように、〈話す主体〉の意識事実として言語記号は恣意的ではあり得ないと主張した。
 これに対して丸山はソシュール講義ノートソシュール派の議論を参照しつつ、議論を構築する際の二つの視点を峻別することで応じている。ひとつは「既成の構造としての個別言語内の視点」であり、二つは「記号の内的関係の視点」(エゲ)あるいは「記号学的な視点」(エングラー)である。バンヴェニストは単に前者の視点だけから事態を考察しているに過ぎない。だが後者の見地から見れば、言語記号の「恣意性」は明白だ、というのである(丸山圭三郎、前掲書、302-307頁)。
 とはいえ「記号学的な視点」から「恣意性」を基礎づけるには重大な障害がある。実際、「記号学的な視点」とは何かについては何の説明もない。当然予想されるように、「記号学的な視点」からの議論といえども禁止されたはずの〈比較〉を多用することになるだろう。
 この難点を回避できる「記号学的な視点」をどのように設定しうるのか(この文脈ではとりわけソシュールも論じた〈オノマトペ〉あるいは〈音象徴〉が問題化する。詳細は、菅野盾樹、前掲書、第一章に譲ることにしたい。)。
 別の種類の難点もある。エゲによると、バンヴェニストが拠る「個別言語内の視点」から見ると確かに「記号は外的必然性の下におかれてはいるが、内的必然性の問題は必ずしも生じない(すなわち、記号は無動機なものである)」という(N. Ege, ‘Le signe linguistique est arbitraire,’ Travaux du Cercle Linguistique de Copenhague 5, 1949, pp.18-19. 丸山圭三郎、同書、303頁の引用による)。
 外的必然性とは社会制度としてのラングが話す主体に揮う強制力をいう。バンヴェニストは単に外的必然性を指摘したに過ぎず、記号のこの性格は内的な恣意性と矛盾しないというのである。
 この区別の空疎さはすでに指摘した。ここでは別の論点にふれたい。エゲは「内的必然性は必ずしも生じない」と言って、実は内的必然性を部分的に是認している(ibid. pp.18-19)。問題はこの「部分」が言語の全体領域のどこまでに及ぶかにある。もし言語の大半が内的必然性を呈する「部分」に相当するなら、「恣意性の原理」はそれでも妥当なのか。言うまでもないが、逆にエゲは「内的必然性」が不可能である積極的論証を遂行してはいない。


 こうして見てくると、〈恣意性の原理〉がわれわれの言語経験と切り結ぶことのない、独断的形而上学である疑いがきわめて濃厚である。
 根本の問題はソシュールが歪めた言語観の伝統がいまだに革新されていないことだろう。言語とは〈言語記号のシステム〉であるよりむしろ〈生命の表現活動〉である。言語学者も生命体でありその研究の営みが表現活動であるかぎり、言語学者にとって〈言語の外部〉はない(言語観の革新というテーマについては、菅野盾樹・近藤和敬「言語音の機能的生成――あるいは、言語が裂開するとき」、『大阪大学大学院人間科学研究科紀要』、33号、2007、39−78頁、を参照)。
 バンヴェニストの言葉を引用することで締めくくりとしたい。ソシュールは喪の観念が黒(ヨーロッパ)や白(シナ)で象徴される事例をあげ記号の恣意性の例解としているが、バンヴェニストに言わせるなら、
「なるほどそれは恣意的だが、しかしそれはただ、シリウス星からの冷ややかな眼差しで見た場合にかぎる」のであり、「客観的現実と人間行動との間に成り立った絆を外から確認するだけにとどめ、そこに偶然性だけを認める羽目になった者にとってのみそうなのである」( Benveniste, ibid. p.51. [『一般言語学の諸問題』57頁])。
(完)