いつ贋作か――贋作の記号学メモ 3

namdoog2009-01-22

贋作を構成する3つの要因 

 画学生や無名の画家はしばしば技量を磨くために大家の作品の模写を試みる。模写した作品(コピーやレプリカ)はただそのあり方のままであるかぎりまだ<贋作>ではない。

 レプリカが贋作となるには、なによりもこの対象が人間の経済活動がくりひろげられる市場のなかを移動する必要がある。
 
 贋作になる資格をそなえた絵画には、レプリカとは別にもう一種類ある。ある大家の様式を模した絵画を描く場合である。

 たとえば、実際にはピカソがその絵を描いたのではないとして、それがいかにもピカソなら描きそうな様式の絵――ピカソさながらの様式をそなえた絵であるケースが考えられる。(厳密にいうと、贋作の存在論にとって、ピカソの代わりにどんな画家でもいいかという問題が残る。まるで無名の画家の模作が可能的贋作になるのだろうか。知名度はどの程度あればいいのか。…これらの疑問へのおよその答えは推定の範囲にあるだろうから、ここでは深入りしない。)

 贋作が成立するには、単に画家によって特殊な特性を具えた絵画が制作されるだけでは不十分である。当然ながら、たとえばピカソさながらの様式で描かれた絵の購入の意向を有する者(個人、美術館、自治体、財団など)が存在しなくてはならない。

 <購入>について多少コメントしておこう。(ちなみに<行為>の構成条件の分析モデルは法律や言語行為論から抽きだすことができるだろう。)その厳密な定義はともかく、<購入する>ためには少なくとも商品を買おうとする意図とそれの遂行が必要である。

 逆にいえば、有名作家の作品に例えばある路上生活者がどんなにご執心でも、彼との関係では<購入>は問題にはならない。

 ただし「購入の意図とその遂行」とは、実際に、特定の購入者が当該の絵画の対価を支払ってこれを私有することまでは意味しない。絵画の販売を目的にした展示会や展観の会場に足を運んだら、不景気のせいか誰一人顧客らしい者がいないこともありうる。だが展示された一枚の絵がまっかな偽物であることは十分に可能である。

 言い換えるなら、<購入>が成立するためには、<可能的購入者>を想定できれば、それで十分である。

 次に、絵を描く行為の所産としての絵画が市場を介して購入者のもとに<贋作>として移動するためには、この絵画を真作として価値づける<鑑定>という行為が必要不可欠である。

 ここにルノアールとそっくりな様式で描かれた裸婦像があるとする。どこにも署名がない。この多作で晩年眼を病んだ画家は署名を忘れたのかもしれない。この絵を所有する画廊の主はこれを金持ちの趣味人のところへ持ち込んで売ろうとする。しかし前者はただ黙って「こんなものを掘り出したのですが、どうです、買いませんか」とだけいって、決してこれが「ルノアール作」だとは明言しないのだ。

 結果としてこの絵が趣味人の手に入ったとしても、どこにも「贋作」はない。なぜなら、この作品が真にルノアール作に違いないというお墨付きを与える<鑑定>という手続きが欠けているからである。鑑定がなされない以上、<贋作>つまり<真作であるという鑑定を裏切る作品>がどこにも見当たらないからである。

 実際、この趣味人はこれが本物かどうかというポイントには無関心だとする。彼にはこの絵が本物かどうかはどうでもよくて、単にこの絵にほれ込んで購入したに過ぎないのだ。

 以上をまとめると、一般に(typically)<贋作>の成立には少なくとも3つの条件が必要である。繰り返すと、(1)特定様式の絵を描く行為とその所産、(2)市場を介しての作品の購入、(3)鑑定、という行為の3つである。絵画の売買がこの3条件を満たしていない場合、一般に(typically)<贋作>問題は生じない。

 この分析については若干の補足説明が必要かもしれない。第一に、贋作事件は刑法の事案であるかぎりで、犯罪の意図が問題になる。しかしわれわれの話は、その手前の問題――<贋作>の存在論――を扱っている。贋作者が人を騙す意図をもって絵を描く行為に手をそめれば、その作品は時と場合によって<贋作>になるだろう。だが<意図>はある作品が贋作であるかどうかとはいちおう独立である。

 以上の分析は現代社会における贋作を扱うのに適切なモデルである。しかし市場で商品が売買されることのなかった時代における贋作の存在論としては過剰な内容を含んでいる。すこし長くなるが市場経済以前の時代における贋作の問題について多少言及しておこう。

 中世末期からルネッサンス期を通じて、絵画の流通する市場は存在しなかった。この事実と、画家が作品に署名を施さなかったこととは関係があるに違いない。レオナルド、ミケランジェロラファエロなどの巨匠たちは、自分の作品に署名を書き入れなかった。彼らの作品は王侯貴族、教会、富豪など限られた購入者のもとに納められた。そのかぎりで、作品が誰の作品であるかについて紛らわしい情況は何もなかった。

 <署名>とは、それが自分の作品だという主張のためのサインであり、同一性のシンボルにほかならない。巨匠たちが、近代の画家たちのように、署名を記さなかったのは当然のことである。

 ところが、同時代のデューラーが珍しく頭文字(イニシャル)を署名にデザインして描きこんだことはよく知られている。美術品のための市場はまだ出現していなかった。画家は都市から都市へ渡り歩き、物乞いのように作品を売らなくてはならなかった。画家が収入のあてにできたのは、パトロンではなく民衆の顧客層であった。もし自作に紛らわしい模倣の絵が出回ったら画家の収入は絶たれてしまうだろう。そこでデューラーは、個人の印を絵の中に刻み付けたのである。「署名がデューラーのように大量複製可能のグラフィックを収入源とする画家からはじまったのはふしぎではない。」(署名の問題については、種村季弘『贋作者列伝』青土社、1992.5、「無署名のデューラーたち」の章を参照。)   (つづく)