〈オブジェ〉の存在論のために

デュシャン 《泉》

 オブジェ・トゥルヴェ(objets trouvés)は、日常語としては「落し物」、「拾得物」をいう。美術の用語としては、自然のものであれ人工物であれ、藝術家が意図して制作したものではないが、それに何らかの美的価値をみとめて「拾いあげたもの」を意味する。――かたわらの美術用語辞典にはこんな説明が出ているが、これだけでオブジェ・トゥルヴェがどんなものかを理解できる人はまずいないだろう。
 オブジェ・トゥルヴェの命名者は未詳だが、よく似たジャンルの作品制作のさきがけとして言及されるのはマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887年〜1968年、アメリカで活動したフランス出身の美術家)であり、彼はこのジャンルをレディ・メイド(ready-made)と名づけた。彼は1917年に陶器製の便器に「リチャード・マット (R. Mutt)」と署名し、これに<泉>とタイトルをつけて美術展に出品した。ところがこの作品の展示を拒否されたという事件は後年周知のことになった。オブジェ・トゥルヴェのジャンルのレディ・メイドにはない特徴は、人工物に加えて、流木や石などの自然物を作品素材として認めているという点だろう。
 辞典の説明には「美的価値」への言及があるが、<泉>の便器を見てもどこが美的なのかは意見が分かれるところだし、デュシャン自身、必ずしもこの作品に美的価値を認めてはいない。その他もろもろの点で辞典の記述はあまりにも説明が不足している。
 メルロ=ポンティは、1948年にフランス国営放送で連続講演をおこなった。この講演で彼はシュルレアリストたちの〈オブジェ〉の思想をとりあげ、彼の身体性の哲学からその展開を試みている。このような議論は主著の『知覚の現象学』その他には見いだせない。その意味で、この連続講演はメルロ解釈のうえで貴重なテクストである。
 メルロの議論を理解するためには多くの考察を割かなくてはならない。しかし出発点を形づくるには、オブジェ・トゥルヴェを次のように押さえておけば十分である。すなわち、<オブジェ・トゥルヴェ>とは、アーティストが世界にあるあらゆる事物から個別的な事物を取りあげ、これを展示するとき、この行為が何らかの(積極的であれ消極的であれ)美的表現を構成するようなジャンルである、と。
 メルロは、この講演の中で、オブジェ・トゥルヴェについて、それを、私たちがときとして風変わりな熱情をおぼえ愛着する環境の要素だ、と発言している。これがオブジェ・トゥルヴェにたいする唯一の解釈ではない点に留意する必要があるだろう。そのうえで、メルロが言いたい真意についてもうすこし考えてみよう。
 シュルレアリスムを指導したアンドレ・ブルトンは制作技法として自動記述を提唱した。この技法によって得られたテクストにはふつうの散文とは異なる顕著な特徴がある。それは、この種のテクストがオブジェの世界を描いていることである(注釈(12)を参照)。それでは、シュルレアリストのオブジェへの関心と欲望はどこから由来するのだろか――こうした問いが問われるだろう。答えのありかを探るために、いささか大きな主題に言及することになるが、<藝術>という人間のプラクティス(慣習行動)の様態とその理解が、20世紀において、大きく転換した経緯にどうしてもふれなくてはならない。
 伝統的な藝術観によれば、藝術の営みとは、<主観>としての藝術家が自在に駆使できる技法をもちいて作品を制作することだとされる。制作は基本的に主観の意識的過程であり、所産としての作品は、その内容とともに客観として存在する。作品は何かを表意するかぎりで<表現>であるが、その表現の様態は、外的であれ内的であれ、何かしらの現実を再現することである。――古典的藝術観の骨格をあっさりと述べるとこんな風になる。
 さらに若干の補足をしておこう。藝術家が用いる技法について彼や彼女が完全にこれを統御することが理想であるのは違いない。だが、現実にはつねに技法の改善が試みられる。つまり藝術家がいつでも主体的に技法を遣いこなすわけではない。その理由のひとつに、技法と素材(絵の具、粘土など)とは一対のものなので、新たな素材が新たな技法を要求するということがある。
 それに制作が意識的過程だといっても、しばしば藝術家が不合理な霊感(インスピレーション)にみまわれる場合もあるだろう。だがこうしたケースは例外であるに過ぎない。現実の再現(レプレゼンテーション)に藝術の表現としての機軸をみるこの種の考え方だと、いわゆる幻想絵画や表現主義絵画などは、主観の内的な空想や情念の表出だということになろう。ちなみに、<現実の再現>と<表象>は横文字として同じrepresentaionの語であらわされる。
 しかしながら、20世紀の藝術活動は、こうした見方を覆してしまった。もちろん藝術家はいまも主観ないし主体であるだろう。しかし、メルロ=ポンティが詳しく跡づけているように、この<主観>が変身をとげたのである。人間が身体を具え世界に住むかぎりで、主観は対象を一方的にまなざす存在者ではもはやない。対象ないし現実が与件ではないからだ。現実とは主観の探究に応じて新たに立ち現れる<現象>にほかならない。
 メルロは、この講演において、「これらの探究はすべてシュルレアリストの試みから由来した」として、彼らの藝術運動に高い評価を与えている。彼らの表現技法に藝術をめぐる存在論的転回を確かめることができるだろう。自動記述については後日取り上げることにして、ここではコラージュやフロッタージュを紹介しそれらの方法論にふれてみよう。
 コラージュ(collage)は本来「貼ること」を意味するが、絵画制作の技法としては、写真、新聞紙、布きれなどを切り取って画面に貼りこむというやり方をいう。マックス・エルンスト(Max Ernst、1891年〜1976年、ドイツ出身のシュルレアリスムの画家、彫刻家)が、たまたま、古い銅版画の挿絵や商品カタログの図版、図鑑のイラストなどをながめていたときのことである。既成のあれこれの図版が幻覚のように自分にとりつき、それぞれの図版がたがいに結びついたり離れたりするのを感じた。そこでエルンストはそれらを切り取り糊で貼りあわせて作品を制作した。これがコラージュの最初の実験であるという(巌谷國士シュルレアリスムとは何か』、ちくま学芸文庫、2002年、75頁以下)。
 エルンストが既成の素材に加工して作品をつくったのではなく、素材がたがいに結びつくのを彼はいわば観客として見たのだ。彼があらかじめ下図を準備し、それにあわせて図版を貼りあわせたのではない。こうした事態が古典的藝術観では理解できない点を強調しておきたい。
 しかし彼にそのような光景を見るように仕向けた要因がある。少なくともこの要因が意識的主観のうちにないのは確かだろう。その所在をフロイトのように「無意識」というかメルロのように「身体」というか、その呼び名にはあまり意味がない。重要なのは古典的な〈主観〉が無力化して新たな〈主観〉が誕生したことである。
 フロッタージュ(frotage)もエルンストが発見した技法である。もともと「こすること」を意味するが、絵画技法としては、木目や布地や葉っぱなどの上に紙をおいて上から鉛筆などでこすって画像をつくることをいう。この場合も、画像を描いたのがエルンストの主観だとは言い難い。彼はただ鉛筆でこすったにすぎないのだから。むしろ主体としての彼は匿名の何ものかが創造する働きを補佐しつつ、創造の現場に立ち会ったのである。
 シュルレアリスムには一定の距離をとりつづけたマルセル・デュシャンを含めシュルレアリスムに与する藝術家たちに共有された方法論を〈デペイズマン〉(dépaysement)として集約しうるだろう。この言葉はブルトンが使用しエルンストが理論化に用いたが、de(除去、否定を表わす接頭辞)+ pays(故郷、国)からできた動詞dépayser(異郷に移す、違和感を与える)の名詞形である。コラージュやレディ・メイドがデペイズマンつまり「本来の環境から別の場所への転置」による技法であることは明らかだろう。
 フロッタージュも例外ではない。例えば、葉の形態は現物の葉に属する特性だが、それを紙にこすり取ることで別の効果を生むのだから、やはり場所の転置の技法だといいうる。デペイズマンが、原理的に、意識的主観が制御する方法ではない点が重要である。「手術台の上のミシンと雨傘の偶然の出会いのように美しい」という詩句(ロートレアモン『マルドロールの歌』)にシュルレアリストはデペイズマンの原理を読み取った。ここに出る〈偶然〉の概念が、メルロにとってと同様、シュルレアリストにとって本質的なものだった点を指摘しておこう。
 結局、これらの技法は単に既成の世界の対象を作品化するためのものではなく、世界を新たに見直すことを学ぶ手法であった。メルロ=ポンティによれば、そのつどの知覚は〈世界を新たに見直すこと〉を内包する。知覚とは知覚しなおすことである。この意味で世界の知覚は世界の構成だといってもいいが、むしろそれは知覚の領野に世界が現出することへ立ち会うことなのだ。
 メルロに言わせるなら、シュルレアリストはこの種の知覚の方法的パフォーマーである。知覚の遂行によって彼らが発見する事物を、彼らはまことに素っ気なく〈オブジェ〉(objet)と命名した。これは哲学用語としては「対象」、「客観」をいう。
 こうしてみてくると、メルロ=ポンティの主張を――シュルレアリストの論理をさかのぼる形で――〈オブジェ〉の存在様態が〈対象〉ないし〈客観〉(objet)の本来の様態である、という言明に要約しうるのである。

シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)

シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)