知覚における算術の誕生 (7)

namdoog2010-11-19

 前期のメルロ=ポンティの思想において、セザンヌの画業に示された真理とは、主体としての身体ならびに知覚の認識論的かつ存在論的優位ということだった。具体的にはセザンヌの色彩観にメルロは多大の影響を受けている。たしかに物象(もの)が見えるのは輪郭線によってそれが空間のある場所に限定されているからである。こうした事態はどのようにして可能なのか。これがセザンヌの問いだったしメルロの問いでもあった。
 知覚のただなかに出現する物象の数的同一性(一個のリンゴ、一本の鉛筆…)は――セザンヌが身をもって了解したように――知性が対象に付与したものではなく、感性の深みで捉えられた色彩の横溢そのものに過ぎない(「色彩を塗るにつれて、デッサンも進むのだ」)。それでは光と色彩がどのようにして輪郭をともなった形態に転換するのだろうか。
 この問いに応じるには、少なくとも二つの論点を解明する必要がある。1つには、色彩から形態への「転換」を実質的に解明すること。2つには、解明された転換の機序(はたらき)を可能にする存在論的制約を明らかにすること。
 私見では、メルロは1についてはまず首尾をおさめたと言えるだろう。しかしながら、2の課題については、前期のメルロ=ポンティ哲学のなかに残念ながら答えは見つからない。(根拠のない断定をしているつもりはない。これは典拠を示して論証できる問題である。しかし議論の都合上、この論証については別の機会を俟つほかはない。)彼自身もこの問題を自覚し深刻に受けとめた節がある。それが後期の思索に彼を駆りたてた動因となったのである(『見えるものと見えないもの』を参照)。
 メルロ自身の問題意識と立論の推移につれて、セザンヌに関する彼の言及も強調点が変わっている。後期のセザンヌ論では――前期の論点が捨てられたわけではないが――知覚や世界や身体についてよりむしろ世界の「奥行き」や「存在の燃え広がり」や「見えないもの」、あるいは端的に「存在」(Être)などの用語が際立ってくる。セザンヌは見えるものを見えるようにしている奥行きや見えないもの自体を描こうとした「存在の職人」だというのである(Merleau-Ponty, L’œil et l’esprit, Gallimard, 1964, p.67. 〔『目と精神』(滝浦静雄木田元訳)、みすず書房、1966年、287頁〕)。この思索の深まりが真に成功しているかどうか――この問いの見極めがメルロ=ポンティ哲学の試金石となるだろう。

              
 さてこうした思索の推移を背景にして、<転調>(modulation)を考察することにしたい。これは元来音楽の用語であり、文字どおりには、楽曲の途中でその調(フランス語ton;英語key)を変えることをいう。たとえば、長調の曲が展開してゆく途中で短調に変わったら、この楽曲は「転調した」ことになる。
 メルロはセザンヌに拠りながら、描かれた事物の輪郭が色彩の転調であると述べていた。音楽用語を絵画に適用しているのだからこれは隠喩的言明である。だがこの隠喩は『知覚の現象学』を初めとするメルロの著作でしばしば使用される重要な概念であり、その正確な含意を明確にする必要があるだろう。
 ちなみにメルロ独自の用法を離れて、一般に絵画について画の色彩や明暗に巧みな変化をつけることをやはり「転調」と呼ぶことがあるが、当然これも音楽用語の比喩的使用である。しかもこれは、セザンヌ自身が絵の量感の効果を得るために用いた技法であった。セザンヌは「隣接しながら異なった多少明度の強いいくつかの色調を使って、それらをわずかに重なり合う小さなタッチで並べながら、その立体感の効果」をかもそうとしたのだった(コンスタンス・ノベール=ライザー『セザンヌ』(山梨俊夫訳)、岩波書店、1993年、64頁)。
 セザンヌを離れて一般に絵画技法としての「転調」といえば、一つの色調に関してその明度を変化させながら別の色調に切れ目なく変えてゆく手法を指すことが多いようだ。この点でセザンヌの同名の技法は破格かもしれない。しかも概念内容を検討すると、メルロの概念とセザンヌのそれとが多少とも重なり合うのがわかる。(メルロ=ポンティのテクスト解釈という視角からすれば、この先にも問うべき事柄があるけれどもいまはこの指摘だけにとどめる。)
 私たちの主題に帰ろう。転調が可能なのは楽曲あるいは楽句(楽曲の部分あるいはフレーズ)が旋法(mode)の構造をそなえるからである。旋法をつくっている主要な要因は「音階」(フランス語gamme; 英語scale)つまり音を高さの順にならべて梯子状にした構造である。音響学的にいって、ある音の振動数の2のn乗倍あるいは2のn乗分の1の振動数をもつ音は「同一の音」――タイプとして「同一」という意味であるが――として知覚されるのが知られている。
 こうした音の知覚を基礎として、西洋音楽ではオクターブ(八度音程)という音階の図式が成立した。最初の音から順にそれより高い音を並べることによって初めの音と同じ音が出現するまでの八つの音を配列した構造をオクターブという。西洋音楽では、音の高さの最小値を「半音」、その倍の高さの音を「全音」として区別する。
 たとえば、ピアノの黒鍵とそれに隣りあう白鍵の間は半音であり、黒鍵を挟まない二つの隣りあった白鍵の間も半音である。オクターブのなかに全音と半音をどのように配列するかによってさまざまなスタイルの音階が構成される。(「転調」の隠喩の眼目はこの点にあり、またあとで触れるだろう。)
 ところで音階のスタイルはさまざまな水準で実現される。よく知られているのは長調短調というスタイルだが、これはオクターブのなかに五個の全音と二個の半音で構成される全音階(diatonic scale)の範囲内で実現される対照的なスタイルである。〔追記:「対照的」というのは、よく言われるように、短調は物悲しさ、淋しさなどの情感を表わすのに向く音階で、長調は陽気さや溌溂さなどの感じをかもすのに向く音階、というような意味。〕
 説明が前後したが、メロディーが中心音(tonal centre)と関連付けられつつ構成されているとき、その音楽は調性(tonality) があるといい、この特徴をそなえた音の組織を調(key)と呼ぶ。
 たとえば、ハ長調はハ音(ド)を中心音とする音階であり、オクターブのなかに全-全-半-全-全-全-半の順で音が並んでいる。これにたいして、中心音をイ音(ラ)とし、全-半-全-全-半-全-全の順で音が並ぶのが短音階である(これはとくに「自然短音階」と呼ばれる。「短音階」のつくり方には他にもやり方があるからである)。要するに、長音階を用いる調が長調短音階を用いる調が短調である。
 ここまで<転調>の分析をすすめてきたが、私たちはすでにこの比喩的概念の(ひとつの)形而上学的中核を析出している。それが<スタイル>にほかならない。なぜこれがそれほど重要な意義をもつのか。この点を明らかにするために、いましばらく<転調>の分析にしたがうことにしたい。(つづく)