知覚における算術の誕生 (6)

namdoog2010-11-13

 科学的認識の知覚主義による基礎づけの問題を攻略するために彼が構えた戦略は、身体運動(表情ある身振り)から言語行動が開花するプロセスを跡づけ、これと並行して身体運動としてのアルゴリズム(数えること=算術)から数学への展開を記述することを基軸としたようである。
 実際、こうした主題にみちびかれてメルロが筆を執った未完の遺稿が『世界の散文』(Le Prose du monde, Gallimard, 1969.; 『世界の散文』(滝浦静雄木田元訳)、みすず書房、1979年)である。従来に倍する言語への関心がうかがえる重要な論考であり、言語と算術(アルゴリズム)のかかわりに繰り返し言及の跡が認められるものの、戦略が功を奏したとは遺憾ながら言い難い。
 たとえば、言語の創出は解明すべき問題というより議論の「前提」になってしまっている。〔言語の生成については私たちの考え方をすでに何度か明らかにしている。文章化された論考としては、以下を参照されたい。「指さしの記号機能はどのように発生するか――あるいは、<ゆうちゃんの神話>」『現代思想』、2004年7月号、青土社、pp.152-165.「言語音の機能的生成――あるいは、言語が裂開するとき」〔近藤和敬との共著論文〕;『大阪大学大学院人間科学研究科紀要』、33号、2007、pp.39-78.〕
 実はメルロの数学へのアプローチをカスー=ノゲスが批判的に論じている。後ほど彼の論文を参照しながら問題を再考することにしたい。
 議論を始める前に、小さな問題かもしれないが、言葉遣いで気になったことがあるのでいちおう吟味しておく。言語以前・言語以外の表現体あるいは記号系から言語が発出することを何と呼ぶか。以前にこれを「創発」(emergence)と名づけたが、メルロの用語では無論ない。その意味ではふつうの言い方で「生成」がいいかもしれない。というのは「創発」はどちらかというと英米系の哲学で使用されまた議論されることの多い術語だからである。
 ここで議論に深入りするのはお門違いなのでざっと触れておくだけだが、この用語のある種の含意が必ずしもメルロの考え方にそぐわないという印象がある。古代以来、この世界が位階秩序(ヒエラルキー)をなすという思想があった。現代でもそれは常識となっているが、世界は大ざっぱにいって三つの階層――(無機的な)物質界、生物界、精神界――から成る、という見方である(別に間違っているとは思わない)。
 近年しばしば論じられてきた問題の一つは、生物界から新しい性質や事物が「創発」されるという問題である。言い換えれば、大脳の機能からどのようにして精神(心といってもいい)が出現するのかという問題である。チャルマーズ(David John Chalmers)はこれを「(意識の)ハード・プロブレム」と呼んだ(ついでながら「難問」と日本語で言ってはいけないのか)。世界の位階秩序という観念には、後から出現した世界の方が上等だという含意がともないがちである。さらにこれにある種の進歩主義がともなうことも多い。通俗的な進化論もその一例である。
 「創発」という発想の眼目は、ある性質や事物を低次の世界へ還元するのを回避し、しかもその性質・事物を正体不明の原理によって説明することも避けるという点――つまり第三の道をゆくという点にある。たとえば、<生命>の機能を物質的な機構に還元する(唯物論)のでも、エンテレキー(Entelechie)という非物質的原理で説明する(生気論)のでもない第三の道、それが物質界からの生命の「創発」である。
 ところでメルロの場合、著作において世界の位階秩序を強く主張しているとは言えない。むしろ逆である。つまり人間は身体性としてこの世界に属している生き物であり動物とそう変わりはないのだし、高次の精神作用も(感官を働かせる)知覚に根ざしている。とくに主知主義者は知覚を感覚与件+判断(知的処理)の形で考えるから、知覚を尊重するとしても実は知性を重んじる。メルロの考えはそうではない。そのために彼の哲学を「自然主義」の名のもとで批判する者は少なくないのだ。
 しかし彼が世界を三つの秩序からなるものとして見ているのは事実である。初期の主著の一つ『行動の構造』(La Structure du comportement, PUF, 1942;『行動の構造』(滝浦静雄木田元訳)、みすず書房、1964年)第三章はまさしく「物質的秩序、生命的秩序、人間的秩序」と題されており、それぞれの「秩序」の特徴とたがいの関係について詳細に論じている。メルロはこう言う。


「形態(forme)〔Gestaltの仏語訳〕の概念が真に新しい解決を可能にするのは、まさにここにおいてである。それはいま定義された三つの場にひとしく適用されうるものであって、唯物論と唯心論、唯物論と生気論の二律背反を超克しつつ、これら三つの場を、構造の三つのタイプとして統合することになろう。そして物質・生命・精神それぞれの特性と考えられている量・秩序・価値ないし意味は、その当該秩序に支配的な特徴というだけのことであり、互いに他の秩序にも普遍的に適用できるカテゴリーとなるであろう。量は質の否定ではない。それはあたかも円の方程式が円の形態を否定しながら、逆にその形態の厳密な表現であろうとするようなものである。(……)」(『行動の構造』、196頁)
 ここで私たちが注目する論点は二つある。メルロは一方で一つの秩序(ordre)から新しい特性が新規に出現することを認めている。それは世界の基本構造を「形態」として捉えるという論点に明らかであろう。形態はおのずと体制化するのだが、偶然的要素を取り込むことによって(他にも要因がありえるが)、別の新しい形態へと変形することもあるからである。このかぎりにおいて、メルロは「創発」の観念に同意するはずだろう。しかもメルロはこれが「第三の道」であることを強く自覚している。引用に明らかだが、ゲシュタルト存在論唯物論と唯心論、唯物論と生気論の二律背反を超える道だと宣言されている。
 しかし第二に、この引用に明言されているように、物質・生命・精神はそれぞれが独自な秩序であるかぎりで秩序として同等であり、それらのあいだにとくに上下関係が想定されているわけではない。図形としての円とその方程式の事例で彼が語ろうとしたのは、二つの秩序の一方が他方をすでに先取りしており、後者が前者をよりよく実現するが、しかしこのことによって前者の潜在性のすべてが汲みつくされたわけではない、という独特な「弁証法」なのである。この考え方とかかわらせるなら、彼が単純に「創発」の観念を認めるはずだとは言いにくい。
 「知覚における算術の誕生」の主題を以下でひきつづき議論するにあたり、「創発」より問題が少ない一般的な「生成」という言い方を選ぶことにする。私たちの結論をはやばやと掲げておくなら、特性や事物の「発生」は基本的に記号系の再帰的構成(recursive constitution)――記号系内部に視点をとれば<再帰的動き>(recursive move)――であると言わなくてならない。したがって、記号系の発動する機会にはつねに何かが発生するのが目撃されるはずである。(個人的な習慣の形成、テクノロジーの発達、藝術的表現の展開、その他あらゆる記号論的プラクティスにおける事例研究、ならびに理論的観点から再帰的動きの諸条件を調べることは、意味のある研究課題である。)

 以下しばらく考察を集中したいのは、初期のメルロ=ポンティの思索のうちで、<再帰的動き>をどのように言語化し表現しているかという問題についてである。重要な概念は私見では二つある。「転調」(modulation)ならびに「変身」(métamorphose)にほかならない。前者は絵画についての存在論的考察にあたり彼がゆきあたった概念である。まずラジオ講演のあるくだりを引用することで、議論を始めたい。

ところで、現代絵画によるさまざまな探究は、興味深いことに科学的探究と一致しております。絵画の古典的教育では、デッサンと色彩を区別します。つまり、まず対象がとる空間性の図式つまり輪郭をデッサンし、それから色彩で輪郭の内部を塗るわけです。ところが、これとは逆にセザンヌはこう述べています、「色彩を塗るにつれてデッサンも進むのだ」と。つまり、知覚的世界においても、知覚的世界を表現する絵画に関しても、対象の輪郭や形というものは、色彩の働きが止まってしまうこと、色彩の働きが劣化することとほとんど同じだ、と彼は言いたいのです。対象の輪郭とは、〔対象の〕形、その固有色、表情、それと近くの対象との関係などのすべてを含むに違いない、色彩の転調だというのです。
 セザンヌはつねにメルロにとって特権的画家であった。初期の著作から彼の生前最後に出した小さな本『眼と精神』にいたる彼の思索を絶えず刺激し続けた画家はセザンヌしかいなかった。この引用で語られたのは、まさしく「絵画の生成」にほかならない。それはどのような事態なのか。

(つづく)