知覚における算術の誕生 (5)

namdoog2010-11-05

 背負った課題を解決しようとメルロが傾けた努力ははたして報われたのか、初期のメルロの構想が後期でほんとうに新たな展開をなしとげえたのか、それを訊ねなくてはならない。繰り返しになるが、彼の初期の「表現論」から引き出されるいくつかの論点が彼の戦略にたいしてどのように関連するかを確認しておこう。
 彼は〈表現〉を身体性に根ざすものとして捉えた。生後間もない幼児が養育者に微笑むことに示されるように、自意識の成立しない段階における身体的所作としての表情こそ表現の原型であり、ここからはまっすぐな経路が発達した子供の身体運動がかもす表情性につながっている。やがて子供は事物を指さしながら発語によってその名を呼ぶことになるだろう。
 それゆえ第一に、表情ある身振りから発語が創発される事態におのずと語らせ、それを現象学的記述ですくい取る必要があるだろう。この目的には遣い古された哲学用語は役に立ちそうもない。メルロが種々の隠喩や新奇な言葉遣いをしなくてはならないのはそのためである。
 第二に、言語という記号形態とは異なる記号形態との比較論によって、言語の特徴をつきつめる必要もあるだろう。すでに述べたように、メルロは言語を音楽や絵画と比較する一種の記号論をかなりな程度まで推進していた。
 第三に――これがもっとも困難な課題になるはずだ――数学を記号系として同定したうえでこの本態を解明しなくてはならない。なぜというなら、近代科学は数学と本質的に結びつきつつ展開してきたからであり、数学の存在論的分析をおいては科学的認識に迫ることは不可能だからである。
 そしてこの三つの要請をつらぬく一つの洞察がある。それはほかでもない、知覚がすでに表現であり、作用しつつある記号系だということだ。


 最初の著作『行動の構造』ですでにメルロ=ポンティは心理学や生理学における〈ゲシュタルト〉概念を緻密に考察していた。何かを知覚することは、対象を地-図の構造のうちで把握することである。ごく単純な知覚も例外ではない。白っぽい背景のうえに小さな赤い染みのようなものが見えるとする。この知覚経験そのものは言語化されていない。だがあえてそれを言葉に出せば、見えているのは「白い地のうえに赤い斑点の図柄が浮き出ている光景」である。この「赤い斑点」は、見る者がそこに没入し体験している名状しがたい感官の質(クオリア)以上のものである。
 パース(Charles S. Peirce)の用語でいえば、それは、一次性(firstness)つまりそれが他のものとの関係抜きでそれ独りで在るというあり方、を超えている。この知覚はそれとは別の何かを表意することによってすでに認識の機能を果たしている。しかもそれが表意するものは、知覚のたんなる素材(現象学者のいう「実的部分」)ではなく、その志向的部分なのである(邦訳『知覚の現象学 Ⅱ』、45頁以下)。ふたたびパース流の言い方をすれば、知覚には、表意するものと表意されるもの、そして意味理解(認識)という三つの要因がある。したがって知覚は三次性(thirdness)のカテゴリーであり、要するに〈記号〉である。
 こうして知覚がたんに受け身の体験ではなく構成力をふるう〈表現〉であるのは明らかである。メルロの知覚論で重要なのは、〈表現〉としての知覚が――他の表現の場合大抵そうなのだが――知性を原理としないこと、反対に知性の基礎が知覚経験にある、という洞察である。
 椅子の椅子性を暗示するさまざまな標識(椅子の形態、大きさ、素材など)を知性によって解釈し椅子として同定するより先に、わたしはいちはやくそれが椅子だと知覚する(だからそれに腰かける)。マルローが述べたように「すでに知覚が様式化している」(la perception déjà stylize)のだ(メルロは出典を明示せずに引用している。La Prose du monde, Gallimard, 1969, p.83.〔 『世界の散文』(滝浦静雄木田元訳)、みすず書房、83頁〕)。後述のように、〈様式〉とは個体の同一性の基準である。知覚が椅子を椅子として見てとることは、一つの個別的なもの(a particular)に〈椅子〉のカテゴリーを付与すること、あるいはそれを椅子として同定することにほかならない。可感的なもの(le sensible)としての椅子は、メルロが知覚物(le perçu)と称する記号的制作物あるいは表現なのである。
 メルロ=ポンティの科学認識論を先に進めるためにいま参照すべきは、グッドマンの世界制作論である(グッドマン『世界制作の方法』(菅野盾樹訳)、ちくま学芸文庫、2008年)。彼によれば、人間は記号を素材にして種々の記号系(グッドマンはこれをヴァージョンと呼ぶ)を制作する。たとえば、夏目漱石は言語を用いてさまざまな小説を生みだした。小説の主たる材料は言語的記号だが場合によって非言語的記号が動員されることもあるかもしれない。いずれにせよ小説の身分が記号系(symbolic system)であるのは疑いえない。漱石が執筆した小説群を全体として一つのヴァージョンと見なすなら、このヴァージョンはいわば漱石的世界をもたらしたと言えよう。
 このように、私たちはヴァージョンを制作することを通じて世界を制作する。グッドマンがヴァージョンを知覚・科学・日常生活・藝術などの人間の営み(practice)に大きく分類していることに注目すべきだろう。ということは、知覚も科学もヴァージョンという一つの観点から互いを比較し関連性を探る道が与えられたのだ。
 さて本来の問題に帰ろう。相対性理論が正しい科学理論として確立されたことは何を意味するだろうか。世界制作論にしたがえば、それは、相対論的力学というヴァージョンをつくることによって、同時に相対論的世界をつくっていることを意味する。時間や空間の概念は記号系としての理論の要素に過ぎない。それゆえ時空の概念は相対論的力学の一部以上でも以下でもない。この種の概念がヴァージョンすなわち世界の外部から世界に課せられる制約ではありえない。別の言い方をしてみよう。時空概念はどんな意味でも相対論的力学の前提にはなり得ないのである。(一般に、ある科学理論から世界についての形而上学を導出するやり方は正当化されない。ニュートン力学とカント哲学の関係を考えよ。)
 世界制作論は「哲学には物理学に先行する権利がない」という主張を含意しているのだろうか。だとすればメルロ=ポンティの構想と課題は見当違いだということになるだろう。だがこれは早まった判断に過ぎない。メルロが終始持ちこたえた論点、知覚があらゆる観念性の土壌であるという洞察が正しいなら、知覚がまさに記号系の一つであるかぎりにおいて、彼の構想と課題は正当化されるはずである。もちろんそのためには、世界制作論が正しいという条件が確保されなくてはならないが。  (つづく)