知覚における算術の誕生 (4)

namdoog2010-10-31

 メルロ=ポンティには、当初から、知覚主義による科学的認識の基礎づけという哲学的モチーフがあった。(彼がこのモチーフを獲得し生涯にわたりこれを堅持したことについては――知覚に着眼したのは彼のオリジナルな洞察だが――フッサール現象学の大きな影響を見ることもできる。)この問題について彼は『知覚の現象学』(1945年刊)でかなり立ち入った議論をおこなっている。
 だが後年に、彼は、ここでの議論が不十分だと自覚することになった。この間のいきさつについては彼自身の証言がある。コレージュ・ドゥ・フランスの教授立候補に際して執筆された報告書である(‘Un inédit de Merleau-Ponty,’ Revue de Métaphysique et de Morale, no 4, 1962, dans Merleau-Ponty, Parcours deux, Verdier, 2000〔「メルロ=ポンティの一未公刊文書」、メルロ=ポンティ『言語と自然』(滝浦静雄木田元訳)、みすず書房、1979年、所収〕)。
 この文書で彼は、1945年以降に自分が新たな研究を始めたこと、〔これらの研究の成果によって〕初期の研究の哲学的意義が決定的なかたちで確定されるだろうこと、そのことが逆に、新たな研究にたいして道筋と方法をさずけることにもなることを語っている。つまり彼は初期の研究と後期の研究とが連続と非連続の両義的関係にある点を明言しているのだ。では「新たな研究」の目指すものとは何か。報告書のメルロ自身の言葉で語ってもらおう。


私たちは、知覚的世界の経験のなかに精神と真理との新しいタイプの関係を発見したと思っている。知覚物の明証性は、その具体相に、〔また〕その諸性質の肌理(きめ)そのものに、(……)〔そして〕その可感的な諸性質のあいだの等価性に、起因する。世界が真である、あるいは存在するのは、私たちの不可分な実存の面前に〔世界が立ち現れる〕からである。(……)私たちが世界において経験する真理は、〔世界から〕透けて見える真理、私たちの精神が保有し画定するというよりむしろ私たち〔の行動や知覚〕を統括するような真理である。ところで、もしいま私たちが知覚物を超えて厳密な意味での認識の領野、すなわち、精神が真なるものを所有し、自ら対象を定義し、そのようにして私たちの置かれた状況の特殊性から解放された普遍的知識に達したいと望むような認識の領野を考察するなら、知覚物の次元がたんなる見かけの姿を取り始め、純粋悟性が認識の新たな源泉となり、これに比べれば、私たちが世界と昵懇(じっこん)だといっても、この関係は形をなさない粗描にすぎない、ということにならないか。――こうした問いにたいして、私たちはまず真理論によって、ついで間主観性理論によって答えねばならない。(……)この真理論が目下執筆中の二冊の本の目標である。(Merleau-Ponty, Parcours deux, pp.41-2.〔 〕は筆者による補い。訳文は邦訳そのままではない。)
 この目的を果たすべく彼が精魂を傾けて取り組んだ著述は、残念ながら、途中で未完のまま放置された。幸いにも、その内容を読者はメルロの没後刊行された『世界の散文』(La Prose du monde, Gallimard, 1969.〔『世界の散文』(滝浦静雄木田元訳)、みすず書房、1979年〕)で確かめることができる。
 彼の思索の道程を記録したこのドキュメントから読み取れる眼目は、誰にとっても明らかである。知覚的次元の真理から本来的認識――科学的認識はここに含まれる――における真理への昇華をどのように解析すべきなのか。この問いにたいして彼が構えた思想的戦略は、大方の予想の範囲であったと言えるだろう。彼は『知覚の現象学』でかなりの頁を費やして身体性の機能としての<表現>とりわけ<言語>を論じている。いまや、メルロは<表現>とりわけ<言語>の概念の再構築によって初期の見地を超えようとしたのであった。

 はじめに『知覚の現象学』における<表現>(expession, Ausdruck)の概念内容を確かめておきたい。メルロ=ポンティは、現象学の徒として、次のフッサールの言葉をこの著作のモットーとした。「黙して語らない経験こそ、その経験の意味の純粋な表現へともたらすべきである」と(フッサールデカルト省察』よりの引用)。経験が知覚を基盤にして成り立つという論点について、フッサールメルロ=ポンティに同意するだろう。だがフッサールにとって、この「表現」とは哲学者による言語的記述(現象学的記述)にほかならない。
 これにたいしてメルロは言語表現を哲学者の専有とは見なさなかった。小説家も言語表現で人間の現実を赤裸々に提示することに努めている。それどころか、絵画や音楽さえ、ある意味で言語表現に匹敵する、いやある場合にはそれに勝る表現をなしうることがある、とメルロは明言する。
 たとえば、彼は次のような趣旨のことを述べている。「小説、詩、絵画、音楽などの作品は不可分な個体であり、それぞれが表現をおこなっている。だがこれらの個体において、表現という機能と表現される内容とを区別できないし、直接的な接触以外にはその意味を手に入れることはできない」と(邦訳『知覚の現象学Ⅰ』、252頁)。
 いっそう明確な言い方もある。「言葉、音楽、絵画など表現のさまざまな様式のあいだには根本的な違いはない。言葉は音楽と同様無言であり、音楽も言葉と同様語っている」と(邦訳『知覚の現象学Ⅱ』、272頁)。
 このような<表現>の把握について筆者の見地から概念的整理をしておきたい。ただし細かな議論や論点は煩瑣なために端折ることにして、核となる論点だけを取り出すことにする。
 第一に、彼が言語にかんして比量的言語による表現(平たくいえば、字義的で一義的な表現かつ真理値をもつような言語表現)を特権化しなかったということ。(これとの関連で比喩の問題があるが、これについては後述。)
 第二に、言語のみならず、非言語的表現(音楽や絵画など)ならびに前言語的表現(たとえば身振りや表情)にも表意機能(signification)を認めていること。従来の美学者が音楽表現に認知的価値がある点を明確に指摘したとは必ずしもいえない。音楽は情動(喜怒哀楽)にかかわるとされ、それは認識とは関係ないと考える向きが多かったように思える。
 第三に――微妙でしかも重大な問題として――メルロのいう<表現>の機能の原型が<表情性>として想定されていること。しかしこう断言するにはためらいがのこる。なぜなら、このような直截的な言い方をメルロがしているわけではないからだ。とはいえ、次のような記述を読むとやはりこの論点を掲げざるをえないのである。〔追記:『知覚の現象学』第一部、Ⅳ章 表現としての身体と言葉、には直截的な論証が見出される。この記事は体系的叙述を目指すものではないのでこのような言い方にならざるを得なかった。〕

フランス語に吹き替えられた映画を観ているとき、わたしはただ発話と映像の不一致を認めるだけでなく、突如、あそこで別のことが言われているとわたしには思えてくる(……)。音響が故障してスクリーン上の人物が突然声を無くし〔それでも〕さかんに身振りを続けている場合、わたしが急に把捉できなくなるのは、彼の話の意味だけではない。光景も変わってしまうのだ。いままで生気のあった顔は鈍麻し凝固して、狼狽した人間の顔のようになる。(……)観客にとって、身振りと発話は理念的意味に包摂されているのではなく、発話は身振りをとりあげ直し、身振りは発話をとりあげ直して、両者はわたしの身体を通して交流しあうのである。」(邦訳『知覚の現象学Ⅱ』、47頁。)
 ここでメルロが述べている言語機能とはすなわち<表情の表出>にほかならない。その機能を彼は「表現作用」(opérations experssives)とも呼ぶ。これが<表情を示す>(showing expressions)という働きである点はまず確実だろう。この直後にメルロはカッシーラーのよく知られた記号機能の三分類に言及しているが、この事実もこの解釈を補強する。『シンボル形式の哲学』を著したこの哲学者は、記号機能をその進化の位相に応じて、表現機能(Ausdruck)-記述機能(Darstellung)-意味機能(Bedeutung)の三つのタイプに分類している。メルロは<表現>概念をカッシーラーの概念から彼なりの展開や洗練を加えて継承したのである。

 後期メルロポンティ哲学の標的を「知覚からロゴスへ」というモットーに要約するなら、これを射抜くための準備はすでに初期の探究によって整えられていたと言えるだろう。
 知覚の黙したロゴスから真にものを言うロゴスへの昇華のために要請されるものは何だろうか。知覚の所作的・表情的意味についてはすでに解明がなされている。
 念のために言えば、メルロの提起した<知覚>のカテゴリーはすでに運動性を含み込んだうえで構成されている。彼のいう<固有の身体>(corps propre)あるいは<現象的身体>(corps phénoménal)が、存在論的にいって、全体として<知覚-運動系>を構成するかぎり、これは当然のなりゆきであろう。たとえメルロのテクストに知覚は知覚として運動は運動としてあたかも別々に語っているように読める個所があるとしても、それは議論の焦点を明確にするための便宜的やり方にすぎない。
 第一に、表情ある身振りから発語が創発される事態を記述しなくてはならない。この目的には遣い古された哲学用語は役に立たない。メルロが種々の隠喩やときとして新奇な言葉遣いをしなくてはならないのはそのためである。
 第二に、言語という記号形態とは異なる記号形態との比較論によって、言語の特徴をつきつめること。すでに述べたように、メルロは言語を音楽や絵画と比較する一種の記号論をかなりな程度まで推進していた。
 第三に、数学の記号系としての本態を解明すること。なぜなら近代科学は数学と本質的に結びつきつつ展開してきたからであり、数学の存在論的分析をおいては科学的認識に迫ることは不可能だからである。
(つづく)

LA Prose Du Monde