知覚における算術の誕生 (3)

namdoog2010-10-25

 一般相対性理論の確立には非ユークリッド幾何学が重要な役割を果たした。19世紀に非ユークリッド幾何学が構想されるまで、幾何学といえば、ユークリッド幾何学のことに決まっていた。ギリシャユークリッド(前330年〜前275年頃)が著書『原論』として大成した幾何学である。
 この『原論』において示された五つの「公準」のうち五番目で最後の公準がまわりくどい表現をしているために、多くの人に不審をいだかせ、公準としての自明さに疑いが投げかけられた。これは「平行線の公準」と呼ばれるもので、「二直線と交わる一つの直線が同じ側につくる内角の和が二直角より小さいならば、二直線をその側に伸ばせばどこかで交わる」ことを述べたものである。
 19世紀になって、この平行線の公準を別の公準に取り換えても整合的な幾何学が成り立つことが証明されるにいたった。数学者たちは、実際に、さまざまなタイプの非ユークリッド幾何学を構成してみせた。とくにリーマン(Georg Friedrich Bernhard Riemann, 1826〜1866年、ドイツの数学者)は空間の各々の場所が異なった空間性を示すような非ユークリッド幾何学を考えた。実際に一般相対性理論重力場に与えた方程式はリーマン幾何学と結びついている。
 こうして見てくると、メルロがここで現代科学(念頭にあるのは明らかに一般相対性理論である)に即して述べていることが感覚としては了解できるようにおもえる。たとえば、「空間中の事物と空間を厳密に区別するのは不可能になりました」という言い方にはかなり説得性がある。しかしメルロがここで打ち出しているすべての哲学的命題が一般相対論力学によって裏書きを与えられていると言えるだろうか。
 とりわけ「空間の純粋な観念と私たちの感覚がもたらす具体的光景とを厳密に区別することはできません」という発言には、還元主義的な感覚主義や素朴な経験主義に安易に同調するような語感がある。実際、認識の「観念性」がいかにして可能か――もの言わぬ知覚のロゴスから比量的あるいは言語的なロゴスへの移行はどのようになされるか――という問題は生涯にわたりメルロ=ポンティが背負い続けた重い課題だったのである。「知覚における算術の誕生」という問題を私たちが設定するゆえんである。
 科学と哲学の関係という問題についてメルロはここでかなり楽観的な見解、つまり新しい科学理論がそのまま哲学的世界観なり形而上学に寄与ないし合致するというふうな言い方をしている。しかし後になると――科学に関する悲観主義とは言わないが――科学知に対する危機意識をあからさまに口にすることになる。
 たとえば「アインシュタインと理性の危機」(1955年)(竹内芳郎監訳『シーニュ 2』、みすず書房、1970年、63頁〜72頁)の発言がある。この論文でメルロが正しく指摘しているように、アインシュタイン自身は古典的な実在論者に過ぎなかったし、自らが確立した相対性理論を哲学的に基礎づけるという問いに手を着けようとはしなかった。彼は大抵のばあいに、理論と実在との一致あるいは科学知の合理性を一つの神秘と見なしたのである。科学理論(相対性理論)の哲学的含意についての考察と科学者(アインシュタイン個人)が抱く哲学についての考察とは区別しなくてはならない。
 メルロがこの短い文章で俎上にのせるのは、相対性理論がもたらした時間概念である。(ラジオ講演では、もっぱら相対性理論の空間概念について語られており、その時間概念には明示的検討がなされていないことに注意しよう。)ベルクソンがパリの哲学会でアインシュタインと時間に関して会話したエピソードをひきつつメルロ=ポンティは、相対性理論の時間概念が日常的世界で人が知覚している時間に背馳することを問題にする。 
 たしかに相対性理論による「同時性」はいちじるしく常識に反している。もう一度確認しておくと、「異なる場所でおこった二つの事象が一人の観測者から見て同時だとしても、別の慣性系にいる観測者から見るとき一般に同時ではない」ことが時間についての相対論的真理であった。同時性が相対化されたということは、観測者の位置に結びつく多数の時間があることを意味する。
 この論文でメルロは、問題に解を与えるために物理学的理性を知覚に根付かせることを提案している。これは単なる知覚への還元主義ではない。なぜなら、理性を知覚へばらす方向に問題への答えがあるのではなくて、知覚から身振りと言葉を通して理性まで上昇する方向にそれがあるからだ。まさにこうした探究に、いわゆる後期のメルロは正面から向き合い、それを背負ったのである。
 いよいよここでメルロの課題と彼の哲学の構想が妥当性をもつかどうか、この問いを訊ねなくてはならない。
(つづく)