知覚における算術の誕生 (2)

namdoog2010-10-21

 メルロ=ポンティが、1948年に、7回連続のラジオ講演を行った記録がある(Maurice Merleau-Ponty, Causeries 1948, Seuil, 2002)。それ以前に、彼は博士論文を構成する二つの著作をすでに刊行していた。とくに主論文「知覚の現象学」が1945年に出版されるや、彼の名は一躍多くの読者に知られることになった。メルロの他にこの番組にはジョルジュ・ダヴィ(未開人の心理学)、エマニュエル・ムーニエ(性格心理学)、マキシム・レネル=ラヴァスチヌ(文学における心理学的主題)が参加している。メルロが最年少者である(40歳)ことは注意していい点かもしれない。このラジオ講演は、初期のメルロの思想をかみくだいた語り口で述べている、という意味で貴重であり、後期のメルロ=ポンティ哲学との微妙だが決定的な違いをここから読み取ることができる(邦訳は近く刊行の予定)。まずある個所のメルロの議論を、少し長くなるが引用しよう。

 古典的科学の基礎は、空間と物理的世界を明確に区別することにあります。空間とは、三つの次元にしたがって事物が配置された〔どの場所も互いに〕等質な環境のことです。この環境のなかでは、事物はその場所がどんなに変化しても、それにはかかわらず事物としての同一性を保っています。
 〔ところが、知覚的世界では〕多くの事例において、ある対象を移動させると、結果として、その特性が変わるのが認められます。たとえば、極地から赤道に対象を移動させればその重さが変わりますし、あるいは、気温の上昇が固体を変形させその形さえ変わるのです。けれども〔科学者によれば〕こうした特性の変化は、移動そのものに起因するのではなく、空間は極地でも赤道でも同一であり、これが場所により変わる気温の物理的条件にほかならないことになります。幾何学の領分と物理学の領分は厳密に区別すべきであるし、世界の形式と内容をごっちゃにしてはいけない、というわけです。
 対象の幾何学的特性は、それが移動するあいだ――たとえ対象を制約している物理学的条件が変わりうるとしても――いつでも同じままでしょう。これが古典的科学の前提でした。
 ところが、いわゆる非ユークリッド幾何学の成立とともに、事態は一変しました。私たちは、空間そのものが湾曲していると考えるようになり、ただ空間を移動するだけでその事物が変質すると見なすようになりました。空間は互いに異質な部分や次元を含み、それらはもはや互いに取替えられないし、こうした異質な部分や次元が空間を移動する物体に何らかの変化をもたらすのです。
 同じものの部分と異なるものの部分が厳密に区分されており、それぞれが異なる原理で結び付けられているような世界――このような世界のかわりに、私たちはいま、それぞれの対象がそれ自身と絶対的な同一性の関係にはありえないような世界、形式と内容がごっちゃにされるような世界、要するに、ユークリッドの等質的空間が対象に与えた堅固な骨組みを提供しないような世界、にいるのです。空間中の事物と空間を厳密に区別するのは不可能になりました。空間の純粋な観念と私たちの感覚がもたらす具体的光景とを厳密に区別することはできません。

 メルロ=ポンティは、ここでニュートンが集大成した古典的な力学的世界像と20世紀にアインシュタインが打ち立てた相対論的自然観とを〈知覚〉にかかわらせつつ、それらの対照性を素描している。どうしたことかここにはニュートンの名もアインシュタインの名もあげられていない。ラジオ番組の時間的制約があるから、現代物理学の哲学的含意について多くの言葉を費やせないのは理解できるが、いずれにせよ、ここでのメルロの議論は、ものごとを「明らかする」のではなく「示唆する」ことに終わっているように思える。
 そこで以下で私たちは、科学史の観点から、彼の議論を再構成してその示唆を示唆以上のものにするよう努めたい。(一般相対性理論の成立に関する科学史上の経緯についてはじつに多くの参考書があるが、この記事で現代物理学の知見に言及した部分は、主として、戸田盛和『時間、空間、そして宇宙』、1998年、岩波書店、を参考にしている。)
 古典的科学の基礎は「空間と物理的世界を明確に区別すること」だ、とメルロは指摘している。これはどういうことだろうか。ニュートンより1世紀前のガリレイは地上における運動を研究して、慣性の法則や落体の法則を発見した。それゆえ、ガリレイの運動は地表のどこかの地点を座標系の原点とするものだった。これに対して、ニュートンは太陽系の中の運動を研究した。ということは、運動を考察する基準が地球に相対的に静止した空間から、星座に相対して静止した空間に移動されたことになる。宇宙は星座によって満たされているから、宇宙に相対して静止した空間なるものを考えたとき、それが(カントが直観の形式として継承することになった)〈絶対空間〉である。
 逆にいって、この地球も宇宙に含まれているのだから、当然ながら絶対空間は地球上に及んでいる。こうしてメルロの言うように、古典科学における「空間とは、三つの次元にしたがって事物が配置されている〔どの場所も互いに〕等質な環境」である。ところで物体は、外から力が働かないとき一様な運動を続けるか、もしくは静止の状態を続けるという性質(=慣性)をもっている。このような性質が顕在化している座標系を〈慣性系〉という。一つの慣性系があるとして、これと対等な慣性系は無数にあると考えられる。ある慣性系でニュートン力学の法則が成り立つとするなら、これに対して一定の速度で動く別の慣性系でも同じように法則が成りたつ(=ガリレイ変換)。この場合、メルロは言及していないが、ガリレイ変換が成り立つには、二つの慣性系の時計が同じ〈時間〉を示すことを仮定しなくてはならない。(実際、相対性理論ではこの観念が否定されることになる。)
 19世紀後半に自然科学は、電磁波という自然現象の研究を通じて、時間や空間について新しい概念を模索することになった。針金に電流を流すとその下に置かれた磁針が回るが、このことは磁針に力が及ぼされることを示している。ところが、この力はニュートン力学の理論では記述できない。この現象はファラデーの実験観察を経て最終的にマクスウェルによって解明されることになる。それが電磁場に関するマクスウェルの方程式である。問題は、マクスウェルの電磁場を不変に保つ慣性系にはガリレイ変換が適合しないということである。このことは、ニュートン力学には自然科学の基礎理論の資格がないことを意味する。科学者の努力は、力学の方程式を電磁場でも変換則が成り立つように再構成することに傾注された――この課題の探究によって研究者が見出したのは、マックスウェルの電磁場を不変に保つ変換則としての〈ローレンツ変換〉であり、この変換に適合する力学としての特殊相対性理論に基づく力学であった。
 古典的科学の枠組みをなしていた時間の概念と空間の概念が特殊相対性理論の確立とともに革新された。まず光の真空中での速さが一秒間に約30万キロメートルであることが測定された。この前提からして「同時性」という概念が相対化される結果が招来した。つまり異なる場所でおこった二つの事象が一人の観測者から見て同時だとしても、別の慣性系にいる観測者から見るとき一般に同時ではないことになる。同時性という概念は観測者の運動状態に相対的な概念なのだ。「同時性」は時間の構造にとって核になる概念であるから、要するに時間は相対的である、という帰結が導かれる。この事態を慣性系ごとにちがう時間をもつと言い換えてもいい。観測者と対象の相対的運動によって変容するのは時間だけではなく、空間も同様である。たとえば、高速度の五分の四で走っているロケットは、進行方向に対して60%の長さに縮んで見える(=ローレンツ収縮)。
 メルロは「〔現代の物理学は〕ただ空間を移動するだけでその事物が変質すると見なすようになりました。空間は互いに異質な部分や次元を含み、それらはもはや互いに取替えられないし、こうした異質な部分や次元が空間を移動する物体に何らかの変化をもたらすのです」と述べている。この記述は特殊相対性理論に基づく力学の知見を知覚言語へ翻案したものと解釈できるだろう。
 この翻案が妥当かどうかにわかには決められない。ただここで押さえるべきことの一つは、現代物理学が光という媒体がになう情報に基づいて理論的な構成をおこなっていることである。メルロは明らかに情報である光を知覚する――何らかの意味での――主体を想定している。これに対して、現代物理学においては、この種の主体は一見して理論的役割を果たしていない。そうした主体が暗々裏に想定されているのか、自然界の外部に秘かに置かれているのか不明である。(ちなみにメルロの言葉が物理学における「観測問題」と結びつくような手掛かりは何もない。)
 エレベーターを吊っている綱が切れたとき、自由落下するエレベーターの中の人は重力が消えたように感じる(=無重力状態)。アインシュタインは、一般に重力場が自由落下によって打ち消されること、加速度は(逆向きの)重力と同等であること(=等価原理)を発見した。等価原理は「慣性質量と重力質量はもともと同一である」ことを述べている。さらに彼はこの原理に一般相対性原理――「すべての物理学の基礎法則は、慣性系に限らず加速度系を含む任意の座標系に対して同じ形で表わされる」を要請する原理――をあわせることによって、一般相対性理論を打ち立てた。このようにして、重力を含む力学と電磁気学が力学に統合されたのである。
 メルロの「非ユークリッド幾何学の成立とともに、事態は一変しました。私たちは、空間そのものが湾曲していると考えるようになりました」という指摘は、一般相対性理論がもたらした知見にかかわる。アインシュタインは、星の光が太陽のふちをかすめて通るとき、太陽の引力にひかれてそれが曲がるに違いないという予想を立て、これは後に正しいことが検証された。等価原理に従うなら、落下運動、放物運動、その他あらゆる重力による運動は物体の質量にはよらないことになる。それゆえ、重力による運動なるものは、質量にはたらく力によるのではなく、むしろ時空のひずみ(「空間そのものの湾曲」)によるものだと言わなくてならない。
  (つづく)