知覚における算術の誕生 (1)

数を数える

 知覚はすでに表現――もちろん言語以前の――であり、それを「黙した言葉」と比喩できるかもしれない。言葉は様々な方向に伸長して文学、科学、その他、あらゆる言語表現の営みとして綺羅を競っている。だが人間が能くする表現は言語的な種類にはかぎられない。私たちは、絵画、音楽、ダンスなど、あらゆる種類の非言語表現をもっている。しかしながら、この指摘は、表現に関する根本事態の単に半面を告げるにすぎない。残りの半面、それはこの事態が可逆性の原形であるということだ。現象学メルロ=ポンティは身体の存在様態をこの可逆性(revérsibilité)に見出した。
 卑近な経験の事実としてこういうことがある。手を差し伸べ机にさわるとただちに机が手に触れるのを感知するだろう。触れること(toucher)は、いかなる瞬間にも、触れられること(se toucher)に打ちされた形式でしか成立しない。<私が机に触る>という一方向のブレのない動作は身体機能というより主意的意識がつくりだす事実(演技とさえ言える)に過ぎない。こうして可逆性そのものとして、あらゆる表現は知覚なのである。
 知覚はすでに表現であり同時にどんなに発達した表現もつねに知覚である。この見地を仮に「知覚主義」と呼んでおこう。メルロ⁼ポンティが生涯持ちこたえたのはこうした洞察であった。(この見地が実はパースの「記号主義」にほぼ重なり合う点は別の機会に論じるかもしれない。ここではただ、表現とは記号系(symbol system)にほかならぬことを指摘すれば十分だろう。)知覚主義を共有する一人として、筆者がいま一通り整理しておきたい問題がある。知覚の只中における観念的なものの生成とりわけ数の観念性の誕生という問題にほかならない。問題が錯雑をきわめ議論の及ぶ範囲も広大であるから、ここでは問題のごく大筋だけの追究に終始するだろう。


 目の前に様々なモノ(哲学者はこれを対象、事物、出来事、過程など様々に命名している)が見える。(ここでは視覚に限定しているが、感覚様相の違いは当面問わないことにする。)いくつかを数えてみれば、ボールペン、腕時計、本…などである。これらはすべて知覚が補足したモノであるから、メルロは「知覚物」(le perçu)(訳語としては「知覚項」でもいいかもしれない)という術語で呼んでいる。
 知覚物についていくつかの指摘をおこなおう。第一に、知覚物は「しかじかのモノ」として(沈黙裡に)カテゴリー化されている。これは一本のペンであり、あれは一冊の本である…。<ペン>なるモノは、一面では色彩や形などをそなえ、他面ではまさに<ペン性>(pen-ness)をそなえる。前者は偶然的で個別的な存在様態を呈するが、後者はペンの仲間のすべてに通有する普遍性である。普遍性は感覚できない(色でも形…でもない)かぎりにおいて「観念的なもの」あるいは「観念性」という存在性格を有する。見えるペンに見えない観念性が精霊のように付き纏っている。このモノを一つと数えることができるのは、知覚物の感覚的成分のためではなく、その観念性のためである。そして(この点が重大なのだが)このペンが一つであるかぎりで、知覚物はデジタル体なのである。
 このペンを半分にへし折ることはもちろん可能だ。その結果二つのモノが残ることになる。それらは二本のペンではない。知覚物としてのペンは破壊されてしまった。<ペン性>が破壊されたのではないことは、引き出しに別のペンがあることで分かる。<ペン性>の二分の一は考えることが不可能だ。逆に言えば、知覚物はアナログ体ではありえない。(<水>、<銅>、(スーパーで購入した果実の一種としての)<リンゴ>…などについても同じことが言えるが、その詳細は割愛する。)
 第二に、見えるものの裏側に貼りついている見えないもの、知覚物の観念性は、知覚物がデジタル的であることの根拠であるが、観念的なものの常として、それだけ孤立して存在が充満した状態で成立するわけではない。全く逆に知覚物の観念性は――単語の意味と同じように――他の知覚物がかかえこんだ観念性に対する隔たりとして、あるいは差異としてようやく成立する。(周知のように、ソシュールは言語記号についてこうした見地を確立した。)
 第三。カテゴリーを貼りつけられた知覚物はつねにこのカテゴリーに関して危険な揺らぎを孕んでいる。当の知覚物からそのカテゴリーが剥奪される事態が招かれないものではない。それが危険である。もちろんあるカテゴリーが剥がされれば、ただちに別のカテゴリーがあてがわれるだろう。日常世界の中に認められるあらゆる知覚物はそれぞれの程度でいつもこの危険に面している。
 例えば<ボールペン>であるこの知覚物が――つまりこのボールペンが――事実上、いつまでもボールペンであり続けるための条件は、世界全体を編成する方式が変わらない、ということだ。もし江戸時代にこの世界に暮らすことになったら、ボールペンは存在しない。それというのは、江戸時代の世界の編成方式が現代とは異なるからである。仮に江戸の町に住む町人に一本のボールペンを示し、これは何ですか、と訊ねたらどうだろう。少なくとも当座は首を捻って答えられないはずだ。せいぜい「先端が尖った棒のようなもの、もしかして大工道具?」など止めどない想念が頭をかけめぐるだけだろう。(同様の想定は通時的のみならず共時的にも設定することができるが、いまは説明を端折ることにする。)
 先に進む前に、私たちの問題に関連する(その大半はすでにここでも使用済みであるが)メルロ=ポンティのいくつかの用語を整理しておこう。
 メルロの最後の本の表題でもある「見えるものと見えないもの」についてだが、「見えるもの」(le visible)とは知覚物の感覚によって捉えられる部面を、「見えないもの」(l'invisible)は感覚では捉えられない部面をいう。したがって、「見えるもの」はたいていの場合「可感的なもの」つまり「感覚しうるもの」(le sensible)の同義語である。他方、「見えないもの」は知覚物につきまとう観念性のことである。しかし、ある場合、「可感的なもの」は知覚物そのものを意味する。プラトンイデアはそもそもどのような意味でも感覚では把捉できない。つまりそれは知覚物=可感的なものではないのである。
 以上に付け加えるとすれば、<知覚物>の存在論がメルロにおいて必ずしも明確にされていないという点がある。それはまずもって、ふつうに解された有形の事物を言うように思えるが、しかし他にも現象(虹など)、出来事、過程、制度、組織など、あらゆる存在様態をとる存在者を包括する。それというのも、そもそもメルロにおいて、認識するとは知覚することだからである。(この点でも彼の見地は「知覚主義」の名に値する。)   つづく

世界の散文
見えるものと見えないもの