フーコー・ブッダ・グッドマン (11)

namdoog2010-08-30

――自己の技法から自己が立ち現れる――

 1984年に亡くなったフーコーは、それに先立つ数年の間、精魂をかたむけてある研究テーマに挑んでいた。それが「自己の技法(テクノロジー)」の問題系だったことは、よく知られている。
 この主題を筆者なりに整理し筆者の問題圏のうちに位置づけるために、ここでは以下の資料を参照したい。すなわち、コレージュ・ド・フランス講義要旨ならびにヴァーモント大学研究セミナーの記録である。(もちろんこの間に断続的に執筆されていた――この表現は必ずしも正確ではないが他に云いようもない――『性の歴史』第2巻があるし、バークリ大学を初めとする諸大学や研究所における講演や演習の記録、いくつかのインターヴュー記事などを参照することができるが、ここではすべて割愛する。)

 まずコレージュ・ド・フランス講義要旨の題目は以下のとおりである。 
  1) 主体性と真理(1980-81年度)(『コレージュ・ド・フランス年鑑』1981年、385-389頁;邦訳は『フーコー・ガイドブック』(小林康夫ほか訳)、ちくま学芸文庫、2006年、所収)
  2)主体の解釈学(1981〜82年度)(『コレージュ・ド・フランス年鑑』1982年、395―406頁。;邦訳は同書)

 ついで、フーコーが1982年10月にヴァーモント大学で実施した研究セミナーは次の邦訳によってその一部を知ることができる。ミシェル・フーコーほか『自己のテクノロジー』(田村俶・雲和子訳)、岩波書店、1990年。(これに収められたフーコー「自己のテクノロジー」については、「自己の技法」(大西雅一郎訳)として『フーコー・コレクション5』(ちくま学芸文庫、2006年)に入れられた翻訳のほうを推奨したい。)


 フーコーコレージュ・ド・フランス講義要旨には<問題>とそれを始末するやり方について読者が知りたいほとんどすべてが明らかにされていて、要約の必要もないほどである(考えてみれば、「要旨」の要点をまとめる作業には奇妙なところがある)。まず、彼がそれまでの研究業績の堅固な土台のうえに据えた標的である研究課題とは、「どのようにして主体は、制度のさまざまな時期およびさまざまな文脈において、可能な認識の対象として打ち立てられてきたのか」にほかならない。いささか長めのこの文章をできるだけ簡単明瞭にこう言い換えられるかもしれない、「われわれが〈自己〉となる――この歴史的生起(Ereignis)はどのように実現したか」と。

 ではこの問いにどうすれば肉薄できるのか。フーコーは自己に関する経験科学的研究――例えば、発達心理学社会心理学文化人類学など――ならびに身体に関する哲学学説の分析(どんな学説を念頭にしていたかはっきりしないが、メルロ=ポンティなどが候補になりそうだ)は無効だとしている。ただしそれらが全然ダメだとはせずに「研究の主軸としては」無効という限定を付している点に注意が必要。この方法論意識を説明するのは、彼が構想した<知の考古学>の諸要請だろう。ここで煩瑣な説明に立ち入れないが、脱歴史主義=普遍主義の建前をとる経験科学や哲学は、<説明されるべきもの>(explicandum)であっても、<説明するもの>(explicans)ではありえない。<知の考古学>は記号論としてメタ哲学の資格を帯しているからだ。

 前置きがながくなった。フーコーの方法は何か。それは、すべての文明にある「自己の技法」という手続きを調べるやり方である。記号過程の観点から見れば、この方法のなかみは、フーコーがかねて従ってきたある種の解釈学(あるいは文献学)以外のものではない。テクストを読むことを通じて、堆積した概念層を探って問題概念の(日付をもつ)誕生をつきとめるのがこの手続きの目的である。フーコーが自己の技法が「すべての文明に存在する」としているのは、もちろん自己の技法の普遍性を主張しているのではない。この全称命題は彼がそのなかで生きる西洋社会にしか適用されない。具体的にいえば、彼の眼差しはひたすら古典ギリシャキリスト教ヨーロッパに向かうのである。むしろここに彼が「内部存在論」にどこまでも即していた証左がある。(フーコ−は水槽の金魚だ。原理的に、金魚の振る舞いを水槽の外から観察はできない。ただ金魚は水槽の壁面に投影される己の映像から金魚の振る舞いを察知するだけだ――フーコーが蒙っている認識状況を比喩すればこんなところか。あまりうまい比喩ではないけれど。)

 刮目に値するのは、フーコーが「自己の技法」の成立根拠を明らかにしたくだりである。曰く、この手続きは、自己の同一性を固定し維持し変形するためのものであり、自己に対する自己の統御、自己による自己の認識という関係に基づくのだ、と。この論理は、実際、記号系の再帰的動き(recursive move)そのものの表現である。

 フーコーブッダ・グッドマン――今回、この三題噺めいた論述を素描する動機はかりそめのものではない。グッドマン哲学における記号系の再帰的構成、そして、唯識思想における阿頼耶識縁起(簡単にまとめると、<種子生現行(しゅうじ・しょう・げんぎょう)>つまり原因が活動を生むこと、<現行熏種子(げんぎょう・くん・しゅうじ>、つまり活動が痕跡を残すこと、<種子生種子(しょうじ・しょう・しょうじ>、つまり阿頼耶識のうちで種子を自ら次々と生み出すこと――つづめて言うと、記号系の無限な自己構成(パースの「記号過程」モデルを念頭にすると考えやすくなるだろう)と、フーコーの思想はその骨格をまったく共有している。


 自己の技法に関するフーコーの考察に必要な限りでふれてみたい。フーコーは、古典ギリシャにおいて、プラトンの対話編『アルキビアデス』に<自己への配慮>なる観念の始まりを認めている。同じ対話編『ソクラテスの弁明』に読み取れるように、<汝自身を知れ>gnõthi seauton という原則が<自己への配慮>(epimeleia heautou)と通常結び付けられてきたのはよく知られたことだろう。またこの種の概念は、つねに自己の技法によって実質的に構成され個々人がそれを生きることになったのである。

 つづけて初期のキリスト教ヨーロッパ(例えば、ニュッサのグレゴリオス)において、また非キリスト教ヨーロッパ(帝政ローマにおけるセネカプルタルコス)においても、<自己への配慮>なる概念が自己の技法によって再帰的に構成されることになる。
 それぞれのテクストからフーコーが読み取った<自己への配慮>ならびに<自己の技法>の多様な特徴と論点はそれぞれ興味深いものだが、ここでは記号系の自己構成としての<自己>とその技法に大きく関係する彼の観察だけに言及する。
 
 自己の技法は鍛練ないし修練(askēsis)という語で表わされる営為の総体を含む。なぜなら、他者と立ち混ざって生きるほかないわれわれは、つねに、競技者あるいは戦士の要素を抱え込むからである。生きることはいつでも人に降りかかる出来事に対処することである。当然ながら、起こりうる事態にいかに対処するかをわれわれは修得しなくてはならない。

 事態に対処するために必要なのは<言説>――真なる言説、理に適った言説という意味でのロゴス――である。フーコーの独自な用語である<言説>(discourse)が古典ギリシャのロゴスに直結しているのは驚きとともに啓発を読者にもたらす。さて、言説には理論的なものと実践的指針とに二分される。いずれにしても、われわれは言説を(言語を含めた行動への)傾向性として身につけている。
 この傾向性を鍛える技法と同時に真理を自分のためにする方法としての記憶――漸進的な銘記の修練(askēsis)という意味での記憶――が重要な役割を演じることになる。
 ――聞くことの重要性。黙って聞く。聞いて記憶にとどめる。フーコーはここに独特な教授法を見ている。師が教えることに学生は反問など一切おこなうことなくひたすら聴従する。(私たちなら、四書五経の伝授と似たところがあるのではないかという感想を持つ向つかもしれない。)
 ――書きつけることの重要さ。ヴァーモント大学のセミナーでフーコーは、書き記すという言語行為が<自己>を構成すると指摘している。例えば、「書簡」が〈良心〉の創発に寄与したという。またフーコーによれば、「日記」の執筆はキリスト教時代に始まり、〈魂の葛藤〉という概念の発生を促したという。
 フーコーの考察を肯定的に評価する見地から、筆者の感想を一つ記しておこう。フーコーは書く行為の〈自己〉にとっての構成力をいう。これは正しいだろう。しかし彼は実務的文書(契約文書、帳簿、政治文書、その他)をいっさい視野の外に置いている。なるほどこれは<自己の技法>というテーマを扱うために取りあえず必要な措置だった。
 しかし考えてみれば、私的/公的の二重性を生きるのが〈自己〉なるものである。フーコーの〈自己〉は私的個人の形而上学的構造によりよく適合するように思える。(自己の公的側面にまったく触れていないとは言わないが。)しかし、現在私たちが直面する問題が大半人間の公共性にかかわるとすれば、自己の二重性は決して小さな問題ではない。それゆえ、<実務的文書を書くこと>を念入りに観察する必要があるのではないか。今後の問題として指摘しておきたい。

 最後に、キリスト教ヨーロッパに固有な〈自己の技法〉がある。最初の紀元数世紀のあいだ、キリスト教世界で、自己を開示することと真理を明示することとの、二つの主要なやり方が遂行された。
 前者はフーコーによれば、exomologēsis, と呼ばれたもので、字義的には「事実の再認」を意味する。具体的には、個人が自分を罪人および改悛者として再認する儀式のことである。後に教会においてこれが〈改悛〉の秘蹟(sacramentum poeniteniae, 英語: sacrament of Penance;最近では「赦しの秘蹟」と訳されている)として確立されてゆく。
 後者は、求道生活をおくりながらexagoreusis〔告白〕を実施することである。これは、上位の者への完全な服従関係のなかでなされる、自己分析を継続的に口頭で表現するというもの。これをおこなう最終的な目的は、自分の意志と自己そのものの放棄である。(念のために言えば、自己そのものの放棄を目指すこの技法がますます〈自己〉を確立する――少なくとも終局までは。)
 二つは大きな差があるが共通点もある。exomologēsis,の模範は殉教である。殉教によって自己は放棄される。他方、exagoreusisの場合、自分の考えを口頭で表現しつつ師に服従する限りで、自分の意志と自己を放棄することになる。

 こうしてフーコーの〈自己〉に関する思想を整理して見て、いまさらながら痛感するのは、彼の思想をどのように引き継いだらいいかについて周囲にあまり明確な答えが見出せないことである。フーコー思想の解説も大事だが、それですませていいものか。
 小欄で筆者なりの解釈を示しながら(もちろんまだ言い足りない点は多く残しているが)提案したいのは、フーコー思想を狭い解説書の中に閉じ込めないこと、いっそう広くまた基礎的な領野とそれを結びつけることである。もちろんこの〈現在〉の日本に生きるという避けがたい制約を引き受けつつ。(この項ひとまず終わります)


フーコー・コレクション〈5〉性・真理 (ちくま学芸文庫)
自己のテクノロジー―フーコー・セミナーの記録 (岩波現代文庫)
フーコー その人その思想