ギブソン学派の直接経験論はどこまで妥当か

namdoog2010-07-14

 小論「フーコーブッダ・グッドマン」の続きは次の機会に書くとして、前から気になっていたギブソニアンたちの教条の一つである「直接経験」(実質的に「直接知覚」とほぼ同じである)についてわれわれなりの断案ざっと提示しておきたい。といっても文献の挙証を果たし、問題にまつわる多くの論点にまんべんなく言及した論文を書こうというのではない。
 ここではもっぱら、リード『経験のための戦い』(新曜社、2010年3月)における著者の議論を検討することを通じて、主題に関する明確な見解を示すよう努めるにとどめる。
 リードのいう「直接経験」のプロトタイプは<直接知覚〉の経験にほかならない。この概念はギブソンに由来するものであって、『直接知覚論の根拠』(Reasons For Realism、境敦史・河野哲也訳、勁草書房、2004年)には「直接知覚」への言及が多く見られる。
 ついでながら、ギブソンが主張した「直接的実在論」(direct realism)がしばしば誤解の的になった経緯を考慮して、リードたちの編んだギブソンの同名の遺稿論集の訳者たちはタイトルを「直接知覚論」と訳している。まずは妥当なやり方だといえよう。しかしこの邦題だと、知覚がつねに探索行動とセットになっているという論点が隠れてしまうリスクがあらたに生じることになる。

1 情報に基づく知覚理論

 「情報に基づく知覚理論」は、そもそもギブソンが、『知覚システムとして捉えられる諸感覚』(1966年)において、従来の伝統的心理学が採用している「感覚に基づく知覚理論」(知覚の因果説)に代わるものとして提唱した理論である。その理論について簡単にまとめるなら、従来の心理学理論が受容器に特化された感覚から知覚が構成されると考えてきたのに対して、「情報に基づく知覚理論」は、構造を具現するのは(感覚ではなく)環境だとする。それゆえ知覚に要求される作業とは、常に変化し続ける環境の中で、相対的に持続的な構造(ギブソンの用語でいうならば「不変項」(invariant))を探索し、身体運動をそのような環境の不変項へと調整することになる。
 これを次のような事例で考えてみよう。例えば、ラットが実験装置の中の視覚的断崖(つまり見かけの「断崖」)を回避したとき、この行動は、それだけで断崖の知覚がラットに生じたことの証拠と見なしうる。ここには、「光がラットの目(受容器)を刺激した結果として特定の感覚が生じ、これが構造化(解釈)され「崖がある」という知覚が構成される」とする仮設を支持する事態は何もない。ラットの回避行動は、環境の中に潜在する構造要因としての「不変項」が行動の次元で表現されたものに過ぎない。その意味で「不変項」と生体の行動とは一対(ペア)をなす。
 ギブソンは同所で、環境中のこの構造の利用こそが「価値」(環境の要素が生体にとってもつ意味)と密接に結びついていると主張する。さらに彼は、この「価値」の語がもつ曖昧さをきらい、「アフォーダンス」(affordance)という術語をつくりだした。ギブソンは、〈アフォーダンス〉も〈情報〉も生体の行動にかかわる要因としては、特に区別しなかった。しかし他の文脈では、生態学的心理学と従来の心理学とのつながりを示すために、「アフォーダンスを特定するための情報」あるいは「刺激情報」についても語っている。アフォーダンスはどこまでも環境の生態学的特性であるが、「刺激情報」は生体や環境から独立したいわば客観的な特性とされている。

2 直接経験と間接経験

 見たり聴いたりすることから得られる経験は、リードによれば、直接的なもの、あるいは体験的なものである。しかし人間の経験一般は孤立したものではないし純粋に個人的なものでもない。われわれは頻繁に他者とやりとりしながら、世界について学んでいる。これが間接経験の成立する根拠にほかならない。間接経験においては、世界について学ぶための情報が何らかのしかたで他人によって修正され、選択され、つくりだされている。

 直接経験は必ず自発的に得られた情報を使用している。間接経験の生まれる情況は直接経験の生まれる情況から派生する。だがその経験が間接的なものになるのは、必ず他人が選択した情報を取り入れるからである。例えば、対面的な相互行為において、人は言語や身振りという媒体を通して間接的に知覚をおこなうが、身振りや語りをおこなう対面者を直接に観察もしている。文字という非人称的な媒体(たとえば、一冊の本)に情報が由来する場合でさえ、語の意味を汲むためには、紙の上のしるしやディスプレイ上の斑点を直接に知覚しなくてはならない。

 間接経験は必ず直接経験と結びついているが、やはり両者は本質的に異なる経験の形式である。直接知覚はいくらでも詳しく続けてゆけるし、つねに新たな情報を明らかにすることができる。この点に関して間接経験には原理的制約がある。例えば、風景の記述(言語、写真、ビデオなどによる)には必ず情報の選択がともなう。
 

3 「直接性」の二条件

 直接経験(直接知覚)の構造についての詳説はひとまずおき、われわれはただちにリードによる、直接経験/間接経験の二分法の是非を考察することにしたい。
 一見すると、この二分法は日常生活のたいていの場面で成り立つように思えるかもしれない。(さしあたり、経験(知覚経験)の発達という次元は問題の外に置くことにする。)上述のように、直接経験の「直接性」の条件としてリードは次の二点を指摘する(実際にはこれらは独立した論点ではないだろう)。
 1)その経験が、環境情報を自発的に択ぶことによって成立するのではなく、必ず他者による情報の選択が介在すること。〔直接経験にはこの制約がない。〕
 2)直接知覚はいくらでも詳しく続けてゆけるし、つねに新たな情報を明らかにすることができる。間接経験には原理的制約があり、情報探索の試みはすぐ終端に達する。

4 1)についての考察

 a) 歴史的経験を典型とする多くの経験が間接化されることは明らかだ。その他の多くの知識も同様である。例えば、ふつうの人に地動説に直接経験の裏書きを与えることはできない。つまり自然や世界についてのほとんどすべての知識が成り立たなくなる。
 もちろん知識一般はそのまま経験ではないが、しかし、日常経験が単なる反射運動や生理現象ではなくて、価値や意味をはらむ人間の存在様態(a mode of existence)であるなら、直接経験に由来しない知識が日常経験の構成分であることは疑いえない。直接経験だけで生きている人間は、生後まもない(もちろん言語を解さない)赤子のような意味しか享受できないはずだ。
 結論として言えば、環境から「直接」情報をピックアップするとき(大人のわれわれは)いつでもすでに他者の情報選択をひきついでいるのである。こうして直接経験/間接経験の二分法は意義を失う。
 b) リードが「他者が選択した情報」を具現化するものとしてあげるのは、他者の発話を初めとする言語表現(話し言葉と書き言葉を問わず)、絵画、歌唱や音楽、映画などの映像、などである。
 じつはこれらのあらゆる表現が直接経験に根ざしている。「画家は視たものしか描かない」(メルロ=ポンティ)なぜなら、直接経験(直接知覚)それ自体が、身体性(身体機能)がつくりあげた一つの記号系(symbol system)だからである。
 問題は知覚だけではなく運動にもかかわる。正確に言うと、生体としてのわれわれ各人は、知覚=行動系という記号系にほかならない。知覚されたもの以外に知覚経験はないし、われわれの身体の動き以外に運動経験はない。知覚=運動経験の持続こそが知覚=運動系としての生体そのものである。
 おのおのの知覚=運動経験は、ギブソン流に言えば意味ないし価値を有するそのかぎりで、明らかに〈記号〉という存在性格を有している。ちなみに古典的な記号の定義を想起することも無駄ではないだろう。すなわち、記号とはそれとは別の何かを表意するものである。〔sign=df. something that stands for something else.(“alquid stat pro aliquot”) 〕ここで経験の発達の次元を導入して再考するなら、ある知覚=運動系が知覚経験をすることは、所与の記号系を再帰的に(recursively)制作し直すことである。それというのも、無からの創造はありえないからだ。
 リードの直接経験論の著しい欠点は、直接経験もまた間接性を免れないことを見なかった点である。また彼の間接経験論の著しい欠点は、間接経験を他者の介在によって規定することによって、知覚=運動の主体を間接経験の受動相においてだけ考察したことである。だがわれわれは知覚=運動系として、間接経験を能動的に制作する主体でもある。

〔追記;ふつうの言い方をすれば、われわれはリードが問題視したような、間接経験を受身で享受するだけの受動的な主体ではなく、場合によっては、間接経験をつくる能動的な主体だということだ。メディア・リテラシーがさかんに話題にされるが、これも受動的な発想の所産に過ぎない。むしろさまざまなメディアを使用して作品を制作する技法を身につける訓練や教育がいま求められている。日本は江戸時代に世界一の識字率だったという。この伝統を現代に生かせないものか。実際、ネットの世界では(まだ部分的だが)シロウトが旺盛な表現を行っている。〕

5 2)についての考察

 リードの議論には一例に即して反駁が可能である。ある絵があるとする。この絵の主題(何が描かれているか)や感得される情趣(feeling)や遣われた色の種類など、それらの情報はひととおりの探索で明らかにされるかもしれない。しかしこの探索プロセスが短時間で終結するとか、他人が情報を選んでいる以上、原理的に限界があると断定する理由をリードはあげていない。
 名画を鑑賞するたびにこれまで気づかなかった新しい発見があるかもしれない。この名画があるいはニセモノの嫌疑をかけられたとする。使用された絵の具の分析で新しい情報が開示されるかもしれない。原理的にいってこの種の観察に限界はない。写真や動画などの記号系についても同様の考察が可能である。
 要するに、リードのいう直接経験/間接経験について、それに属する可能的情報が有限か無限かという基準で両者を別々のカテゴリーとして立てることはできない。

6  結び

 以上の批判的吟味にもかかわらず、例えば、風景を目で見ることは直接経験(直接知覚)であり、風景の写真を見ることは間接経験(他者の選択した情報の受容)であって、両者はカテゴリカルに異なる、というリードの主張は正しいのではないのか。
 そうではない。風景を目で見ることが直接知覚なら、風景写真を見ることもまた――もちろん風景ではなく――風景写真の直接知覚なのである。

〔追記;われわれは、ふつうの意味で解された、直接経験/間接経験という区別を否定するものではない。ただそれにリードが与えた規定に理論的誤りがあり、したがって、両者をリードとは別のかたちで概念化することを提案しているに過ぎない。誤解されがちな論点なので敢えて記しておく。〕



経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ  直接知覚論の根拠―ギブソン心理学論集  知覚の現象学 (叢書・ウニベルシタス)