フーコー・ブッダ・グッドマン (10)

免疫系

 記号主義の哲学にとって最大の問題のひとつは、他者の存在論であろう。ところで、他者とは、(デカルトに言わせるなら)〈もう一人の自己〉(alter ego)であるから、その限り自己無くして他者は存在しない。自己の立ち姿が鮮明になればなるほど他者もまた鮮やかに立ち現れる。自己意識が薄弱な状態におちいれば、他者もまたその姿をおぼろにする。 個的な自己と他の個的な自己との相互的交渉を背景にして初めて、おのおのの個的存在としての〈自己〉が存在論の地平にその位置づけを持つことができるのだ。
 ついでながら、西田幾多郎は個の存立をめぐるこの事態に着眼して、あの人口に膾炙した「絶対的矛盾の自己同一」という独特な議論を展開している。だが彼の議論に立ち入るのは、当面する問題に関する考察をいたずらに輻輳させる上に、筆者にはいまひとつ西田の論点が判然と捉えられない。そんなわけで、いまは西田の議論を取り上げることはしない。
 とはいえここで確認しておきたいのは、自他の存在論をどのように描くにせよ、それがかなり危ういバランスを取らざるを得ないという点である。自他の関係性そのものに存在論的プライオリティを与えると、自己と他者はいわば案山子のようにリアリテのないものになってしまうし、関係性より自他を優先させると、記号主義あるいは構成主義存在論の土台が掘り崩されてしまう――このリスキーな理論状況において、われわれはどのようにバランスをとるべきか。
 ところで、仏説を(自己と世界に関する)超越的教えあるいは宗教教義と見なした場合、他の教えには見られないその最大の眼目は、明らかに実体やアートマンとしての〈自己〉ないし〈主体〉を激しく否定し棄却するその教義にある。
 仏教者は必ず無我(anatman)や空(sunya)の教えを説くから、難解なその理説に通じない者でも、おおよそ仏説が自己を否定する教義であることは知っている。当然ながら、仏説をあからさまに記号主義的表現にもたらした唯識思想も、無我を説くことでは軌を一にする。つまり自己や主体性はただ構成された記号系として現象するに過ぎない。現象の背後やその基底に自己なるものは何もないのだ。
 それでは他者はいなくなったのだろうか。自己がいなければ、他者もいないと言わなくてならないはずだからである。しかしこれはまことに奇妙な教えではないだろうか。というのも、われわれの現実感覚を信じる限り、他者が厳然として存在するように思えるからである。そして他者はしばしば自己との交渉を撹乱し阻害する厄介な存在者であるように思える。(もちろん他者との和気藹藹とした調和的関係もまれではないのだが。そしてそもそも自我の意識を否定することがどうしてできるのだろうか。)
 グッドマンの世界制作論の書物をひもといても、この種の、自他をめぐる形而上学について主題的に論じた章は見当たらない。しかしながら、グッドマンのこの問題についての基本的方向性は、唯識思想とそう異なるものではないだろう。そのような見当をつけるための根拠が彼のテキストの中にないわけではない。('The Epistemological Argument,' 'The Emperor's New Ideas'などの文章を念頭にしている。いずれも、N.Goodnan, Problems and Projects, The Bobbes-Merrill, 1972 に所収。)

 次の点に注目しなくてはならない。彼は言語を身体機能の延長に開花するものとして捉えている(この論点は、坂本百大(1991)『言語起源論の新展開』で肯定的に言及されている)。そして言語機能がわれわれのパーソン(人格)を自己言及的に(再帰的に)構成する――このような方向性が暗示されているのがわかる。つまりわれわれは言語行為をなすなかで〈自己性〉を獲得する、あるいは〈自己となる〉のである(本来的に自己である、のではない)。
 ちなみにこのアイデアは、グッドマンとは独立に(言語学あるいは言語思想の領域から)バンヴェニストがかなり詳しく展開している(『一般言語学の諸問題』邦訳、みすず書房)。この見地にはカント主義者からの反駁が予想されるし、実際その種の論評が少なからず行われた。つまり言語を使用するには、超越論的な意識主体が存在するはずだという「批判」である。
 守旧派はこのようにしてせっかくの「概念空間の再構築」の努力を無に帰してしまうのである。問題は〈まなざしの転回〉であって、旧来のまなざしから新たなものの見方=理論(テオリア)を抑え込むことではないのにもかかわらず。ちなみに、主体を言語化することによって、〈語る主体〉(sujet parlant)を〈考える主体〉(sujet pensant)より優位に列した哲学を提唱したのは、身体性の現象学を確立したメルロ⁼ポンティその人だった。 
 この論点にかぎらず、メルロの哲学は基本的に記号主義に依拠していることを忘れるべきではない。何よりも人間存在を知覚=行動系、つまり命の宿った記号系、として詳細に記述する彼の方法はこのことを明示している。とはいえ、主体の言語化という思想は、端的にまた直截にメルロの記号主義を物語るものである。


 仏教思想が本体的な自己ないし自我を否定することはよく知られている。しかし日常的世界(無明の世界)では自己が赫赫と燃えさかり、その炎でわれわれは身を焦がさざるを得ない。ブッダは自己の無を心の底から自覚し悟るよう教えるが、それというのも、自己の幻想はあまりにも熾烈で人の心を覆い尽くしているからだ。無でしかないものが(実際はこうした述べ方は無にはふさわしくないだろう、無いものを「無」と名づけただけで、それは何かになってしまうのではないだろうか)なぜゆえ、この上ない力能(パワー)をもつもの、人に最も近くて親しきものとして実感されるのだろうか。誰でも自己のことは分かるはずだし分かっていると思い込んでいる――ここに大きな逆説がある。これに片をつけるのが、東アジアに生まれた古代思想・仏説の一つのメリットではないだろうか。
 仏教が無我をいうときのその無いはずの「自我」とは「常・一・主宰」といった属性をもつかぎりでの自我、つまり本体あるいは実体としての自我である。実体としての自我とは、時間的限定を越えて常にあり続ける自我(常)、さまざまな変化の底にあって常に一つであり(一)、ものごとを宰領する主体としての(主宰)自我である。それゆえ、仏教は現象している限りの経験的自我を無いと言い張るわけではないという(例えば、竹村牧夫『哲学としての仏教』講談社現代新書、pp.22-24.)。
 仏説における〈自我〉について考えるには、唯識思想の独特な自我観がきわめて示唆的である。唯識思想によれば、自我の幻想は、人が心の中に末那識を抱え込んでいるかぎり、拭うことができない。そもそも末那識は恒常的な我執の識にほかならないからである。仏教では、総体としての人の心を〈心意識〉と呼ぶことがある。〈心〉は阿頼耶識、〈意〉は末那識、〈識〉は六識(眼識以下の五識と意識)のこと。
 阿頼耶識の中にある種子のために末那識が生成して現れる(「現行する」)のだが、こうした出自のために、末那識はこの阿頼耶識を常住不変の〈自我〉であると(誤って)想定することになる。(もちろんこの認識は意識化されないまま人の心の底にわだかまり続ける。)
 末那識は四つの煩悩にいつでも苛まれているという。「謂わく、我癡と我見と、幷びに我慢と我愛なり」(『唯識三十頌』四・一三)。我癡とは、自我の由来の真実を知らないままでいること。我見は、実体としての自我があるという誤った見解。我慢は、自分と他者との関係において自分を保全しようとする性向。我慢は〈自我がある〉という思いから起こる思い上がりの心であって、「慢心」と言い換えてもいいだろう。最後の我愛は、自我に対する飽くなき愛着である。――こうして見てくると、存在論的に言って、末那識のレベルにおいて初めて〈他者〉が他者として成立する印象がある。というのは、ただ融和的な関係にある他者は、いわば自己の片割れとも分身(double)とも見なしうる存在性格を有するかぎりで、本来的な他者――自我に可能的に険しく対立するもう一つの自我――とは言い難いからである。
 他者に対峙する末那識の性格は、生命体のあり方を巧みに語っている。個体としての生命体は自己保存を課せられている。みだりに自己の死を甘受すれば、この個体を包摂する種が絶滅の危殆に瀕するだろう。生命体に関して〈個体〉や〈種〉の概念を構成するのは、我見や我慢など「四つの煩悩」である。ミクロな見地からも同様の指摘が可能である。古代人は知らなかったかもしれないが(断言はできない、というのは、人体に外から侵入する害毒を駆逐する何かしらの力が人体に具わっているという理解はあったのではないかと推測されるからだ)、身体への〈他者〉の侵襲にそなえてわれわれは免疫系(これはまさに記号系である)を身体性の一部に装備している。  (つづく)



言語起源論の新展開 
一般言語学の諸問題