フーコー・ブッダ・グッドマン (9)

namdoog2010-05-21

 

記号系の再帰的構成としての阿頼耶識

仏説のひとつの核心は唯識思想によって明らかにされ展開されたが、この唯識思想が、本質的にいって、記号主義の古代的表現だった点を疑うことはできない。記号主義とは、端的に言って、世界あるいは実在を記号系の再帰的動き(ないし再帰的構成)のプロセスそのものとして了解する思想にほかならない。(阿頼耶識再帰的構成の図式を参照。横山紘一『唯識思想入門』レグルス文庫、p.93.)
 とすると、<存在>――なぜ世界があって無ではないのか――のひとつの意味とは、このプロセスが生起したこと、このこと自体であり、ひいては、人間中心主義を離れた、真の意味における<自然>なのかもしれない。すなわち、外的要因によらず自ずと立ち上がる働きのことである。しかし、これに関してはなお詳しい考察が必要だろう。
 いましばらく、唯識思想が記号主義の表現にほかならないことを若干の論点を明らかにすることによって確証しておこう。筆者が着目するのは、ひとつに、識における相分と見分の区別であり、二つに、阿頼耶識における相分のなかみである。
 唯識派では識の認識する対象がその識そのもののうちにあると考えた。もちろん識には認識する働きが属しているから、結局、識には認識するもの(<見分>という)と、認識されるもの(<相分>という)との二つの要素が含まれていることになる。別の言い方をするなら、識を越えたところに何ものもない、いや識を越えたところを発想することが不可能なのだ。
 やや寄り道になるが、是非とも指摘しておきたい点がある。こうした言説にふれた人は、20世紀の現象学派の学説を想いだすのではないだろうか。よく知られているように、フッサールは意識の他の存在者にない特徴を<あるものについての意識>という構造に見出して、これを「志向性」と呼んだ。さらにこの志向性を記述するために、ノエシス/ノエマという対概念を導入した。
 ノエシスはnoeo(見る、考えるなどを意味するギリシャ語)に由来する用語であって、思考や規範にかかわる意識の作用性をいう。フッサールによれば、ノエシスが感覚与件(ヒュレー)を賦活しそれに意味を与えることによって志向的体験(例えばひとつの知覚経験)が成立するという。ノエマとは、この体験において捉えられた対象(つまりは<意味>)である。
 注意すべきは、ノエシスがヒュレーと並んで体験の実質的な(術語でいえば「実的な」reell)要素をなすとされ、しかしノエマはそうではないとされた点である。ノエマ概念をめぐっては研究者の間で多くの議論があるようだ。さしあたり気づかれることを記しておこう。第一に、ノエマの存在性格をどのようにつきつめるかは措くとしても、それが意識内在的契機である点には相違はない。そして第二に、フッサールによる<ヒュレー>の想定がきわめて曖昧だという点である。
 まずそれが単純に<感覚与件>と同一視されることに不可解さがある。現象学は心理学理論ではないはずだろう。ではそれは、カントの<物自体>のようなものなのか…。結局、<ヒュレー>の問題を適切に論じるのは今後の課題なのだ。これを含めた諸点から見て、唯識思想と現象学がある程度類似するのは明らかだが、(ときたま見受けられように)現象学の見地から前者を解釈するやりかたは好ましくないと言わざるを得ない。
 本論にもどろう。唯識思想においては、識のうちに見分と相分の両方が内在する。興味深いのは、唯識論者によっては、見分そのものを自覚する働きとしての<自証分>と、さらにこれ(=自証分)を自覚する働きとしての<証自証分>を立てる説を唱えたことである。この立論にはなるほど理由があるかもしれない。(ただし断定は差し控えたい。)だとすると、証自証分に対する見分が新たに要請されるのではないだろうか。結局はここに見分への無限遡及が出来し、あらゆる認識は不可能となり、ひいては対象の成立もあり得ないのではないか。ところが、この疑念に対する確たる答えは――論書や解説書には――見つけがたいように思える。
 私見によれば、「自証分」に関連した議論は――まじめな吟味抜きで言われることがあるのだが――「唯識思想の周到さ」をあらわすものではない。むしろこの議論には唯識思想のある種の脆弱さが示されているのではないか。
 飛躍した言い方になるが、われわれが逢着した論点は必ず〈意図〉の存在構造の問い――意図が成立する条件とは何かを規定する問題――と深く結びつくだろう。われわれはグライスの言語哲学を想起しつつこの見通しを立てているが、残念ながら、問題を掘り下げる余裕がいまはない。それに先立って、再帰的構成としての阿頼耶識というわれわれの論点に必要な限りで、「阿頼耶識の基本的特性」(横山紘一)を明らかにしなくてはならない。


 阿頼耶識は、識であるかぎり、みずからを自覚している(これが前述の自証分)が、しかしその認識は、通常の意識には捉えられず不可知(asamvidita)である。とはいえ、自己と世界の根源をなすものとして、唯識派の論者が「暴流」(ぼる)と呼ぶように(「恒に転ずること暴流の如し」、『唯識三十頌』)、阿頼耶識は荒れ狂う大河の流れさながらに絶えず働いている。
 さて、阿頼耶識の相分は、〈有根身(うこんじん)〉と〈器世間(きせけん)〉と〈種子(しゅうじ)〉から成っている。有根身とは個体的身体であり、器世間はこの身体が適応する環境世界をいう。そして知覚や行為をもたらす原因をなすものが種子である。有根身はまた五根とも呼ばれている。つまり、眼識・耳識・舌識・鼻識・身識の五つの感覚の働きをそなえた身体のことである。
 こうして、唯識思想では、各々の人間が阿頼耶識のうちに、身体+環境世界を蔵しているという。種子について簡単な説明を加えておこう。この植物学的隠喩のいわんとする点は明らかだ。人が経験し行為したとき、経験と行為そのものは消えてしまうが、それでも心身の統一体である個体の根底をなす阿頼耶識のうちに、残り香のようなものを残す。これは、いわばまかれた種子のようなものであって、ここから次の経験や行為が芽吹くのである。〈種子〉とは、パース記号論における〈習慣〉(habit)にほとんどそのまま対応する観念ではないだろうか。
 このような阿頼耶識の構造の捉え方は、あくまでスタティックな図式でしかない。真実は、始原なき始原のとき以来、阿頼耶識の相分と見分のダイナミックな再帰的構成が「暴流の如く」行なわれてきたし、いまも行われている、と見なさなくてはならない。
 阿頼耶識の思想に関して、あらためて若干の論点を確認しておきたい。第一に、人間においては、自己の身体と環境世界とは、同じ相分の要素であるかぎりにおいて同類であり、いわばワンセットをなしている。自己の身体を生きる人間の自己は環境世界と響き合っている。こうした考え方が、ヨーロッパ古代における、〈マクロコスモスとミクロコスモスの照応〉という思想に酷似する点は見過ごせない。
 さらに、自己と環境世界のセットのつくりかた(making)は、〈個体〉なる存在性格を付与できる存在者ごとに、さまざまでありうるだろう。すなわち、環境世界(人間の場合は単に「世界」と言ってもいい)は複数存在する可能性がある。(唯識論者が、人間以外の動物に阿頼耶識を認めたかどうか確認してはいないが、もし認めるなら、種ごとに世界が異なるのは明らかだ。)これをわざわざ指摘するのは、グッドマンの複数世界論との一致点を確かめるためである。
 「暴流の如き」阿頼耶識の働きを、個体の発達の軸に即して認めることができるだろう。生物としての人間は加齢を免れないからである。同時に系統発生においてもこの暴流を確認できるものとするなら、原始的世界認識(あるいは世界制作)から、人間におけるようなかなり洗練された世界認識(あるいは世界制作)までを単一な阿頼耶識の上で目撃できるはずだろう。――ここには人間学形而上学に対する実に豊かな考察の手掛かりが横たわっている。

                                                            (つづく)

入門 哲学としての仏教 (講談社現代新書)『成唯識論』を読む (新・興福寺仏教文化講座)