フーコー・ブッダ・グッドマン (8)

 

阿頼耶識とは何だろうか

 
 唯識の根本をなすのは、「現実に認められる外的現象と内的現象とはすべて、なにか或る根源的なものによって表わされたものにすぎない」という思想である(横山紘一『唯識思想入門』、レグルス文庫、p.93)。繰り返しになるが、これは「記号主義」のあからさまな表明ではないだろうか。少なくともこの論点に関しては、グッドマンやフーコーに異存はないと言うべきだろう。

 しかし、唯識論とは記号主義だと即断するにはまだ早いかもしれない。なぜなら、この表明には記号主義にとって異物のように消化し得ない要素が登場しているからだ。「或る根源的なもの」とは何だろうか。例えばグッドマンは、数多くのヴァージョン〔表わされたものの体系、記号系〕を唯一の基礎に還元する可能性を要求もしないし、前提もしない。哲学史に顕著な事例を求めれば、例えばカントの「事物そのもの」(Ding an sich)すなわち「あらゆる形式を離れた純粋な内容」は、その種の「基礎」に相当している。

 概念作用を欠く知覚、純粋与件、絶対的な直接性、無垢の眼、基体としての実体(substratum)〔ある辞典にはこうある。METAPHYSICS substance, with reference to the events or causes which act upon it, the changes occurring in it, the attributes that inhere in it, etc.〕はいわば自爆せざるを得ない概念なのだ。「というのも、まさにそれを語ることが構造を押し付け、概念化をおこない、特性を付与するから」である(グッドマン『世界制作の方法』ちくま学芸文庫、p.26)。「世界がなくても言葉は存在できるが、言葉なり他の記号なりを欠けば世界は存在できないのである」――このグッドマンの言葉ほど一見途方もない断定もないかもしれない(同書,ibid.)。だが冷静になって考え直せば、これがいかに理にかなった言明かがわかるだろう。

 では記号主義と唯識論とは、部分的には両立するものの、しかし結局はたがいに相容れない異質な思想なのだろうか。決してそうではない。以下しばらくこの論点を明らかにしよう。

 唯識が持ち出す「究極的存在」とは何だろうか。唯識派の論者はこれを「阿頼耶識」と名づけた。そうすると、唯識とは、あらゆる存在は阿頼耶識によって表わされたもの、つくりだされたものであることを唱える思想のことである。

 われわれは、唯識論者のふつうの解釈を十分に踏まえたうえで、なおその先に解釈を進めなくてはならない。換言すれば、われわれはできる限り「阿頼耶識」の形而上学的解明に努めなくてはならない。ただちに次を指摘できる。

 西洋哲学は「あらゆる表現形態(記号系、ヴァージョン、representatum, etc.)を越えつつこれを限定する」という意味で「究極的なもの」を想定してきた。唯識の立論はあたかもこれと同じ轍を踏んでいるように見える。だがこれは事実誤認である。

 唯識のいう「究極的なもの」は、あらゆる実在を越えているわけでは全然ない。「阿頼耶識」の形而上学的身分は、それが限定しつくりだすものと同じ「識」にほかならない。ごく単純化して言えば、〔阿頼耶識という〕識が〔その他のあらゆる実在に相当する〕識をつくりだすのだ。ここに見られる構成は、数学者がいう意味で「再帰的」(recursive)である、あるいは阿頼耶識再帰的に(recursively)実在をつくりだすのである。 

 西洋哲学の伝統では、〈あらゆる表現形態〉はしばしば〈現象〉(phenomena)や〈表象〉(Vorstellung)などと呼ばれ、それらの一切を越えた〈本体〉(noumenon; (pl.) noumena)が絶対的で究極的な実在として想定されてきた。哲学史を参照すると、こられ二者のかかわりや関係をどのように解するかが多くの哲学者の考察の的となり、さまざまな学説が唱えられたことがわかる。

 われわれが注目せざるを得ないのは、西洋哲学のながい伝統の中で、究極的な実在を〈本体化する思索〉(noumenizing thought)を押しとどめる思想がなぜ育まれることがなくいまに至ったかという点である。〈本体化する思索〉の所在をわれわれが自覚することができたのは、まさに20世紀におけるグッドマンらの業績のおかげである。

 ところが東アジアには、古代の昔から、この〈本体化する思索〉を自覚的に克服しようとする思想が伝統をなしてきた。人は仏説にそうした思想を読み取ることができるだろう。ひきつづき、阿頼耶識について、専門家の著作を参照しながらごく荒っぽいスケッチを描きたい。

 阿頼耶識の「阿頼耶」はサンスクリットのアーラヤ(alaya)の音写である。この語は住居ないし場所を意味するという。阿頼耶識とは、だから、一切の現象が生じる場所をなす記号系のことである。

 識=記号系が〈場所〉と把握されている点によほどの注意が必要だろう。われわれはこれを〈生命が住みつく場所〉でありひいては〈生命としての場所〉と解釈する誘惑に抗することができない。またこれを異なる角度から見れば、あらゆる現象(一切諸法)を生みだす種子を含んだ「蔵」と捉えられる。ここから「蔵識」の漢訳が由来した。「種子」はもちろん植物学的隠喩であって、〈生命としての場所〉に直接結合するレトリックにほかならない。この点から阿頼耶識を「一切種子識」とも称する。

 このように、実在するものの生成とその転変は、阿頼耶識そのものの再帰的動き(recursive move)なのである。唯識思想の独自性はこれを〈証悟〉つまりさとりを得るためのプラクティスの理論として思弁的に明らかにした点にある。当然ながら唯識論者の言説は一見して心理学的な色彩にみちている。だがこれにつまずいてはならないだろう。なぜなら彼らの議論は心と身体の日常的カテゴリーが成立する以前のレベルで繰り広げられているからだ。

 唯識思想からいわゆる深層心理学的な知見を導くことが間違えだと決めつけているのではない。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識を区別するやり方は原始仏教いらいのものであって、唯識論者はこれに〈末那識〉を付け加えたという。〈末那〉はサンスクリットのmanasの音訳であり、原義は〈考えること〉。睡眠中でも目覚めているときでも(広くいえば、生死輪廻するかぎり)心の深層において働きつづけ、阿頼耶識を対象としてそれを〈自己〉として考え執拗に執着しつづける心の働きである。現代の論者はこれを深層心理における無意識的自己意識と解釈している。他の論者はこれを人間の自己保存本能と解する。いずれにせよそれぞれが示唆的なのは確かだろう。だが繰り返すなら、唯識思想を単なる心理学に縮約してしまえば大きな過ちを犯すことになるだろう。     (つづく)

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